福音と世界, 18・11, 新教出版社, 1963. 11., pp. 26-33.Prof. Rihito Kimura wearing a smile

老人の生活と青年の生活
[ 座 談 会 ]

浅野順一 (青山学院大学教授)
木村利人 (早稲田大学学生)
福田啓三 (明治学院大学学生)

[:上記( )内の座談会参加者の紹介は1963年(昭和38年)当時のものです。]


  日本の発展期と信仰  

木村 先生のお生まれになられたのは何年でしょうか。
浅野 1899年ですよ。
木村 と申しますと、ちょうど日本が国家的にも体制を整えて、たびたびの戦争を通じて日本が強くなってゆく時期ですね。先生はその時期に日本といっしょに成長されて、やがて太平洋戦争を迎え、そして壮年期の終わりにはいるところで敗戦を迎えられるわけですが、そういう先生が、敗戦をどのように受けとめられ、またその体験をどのように生かそうとしておられるか、それを先ず伺いたいのです。
浅野 私の少年時代、それから学校にはいって、だんだん物心のついてきた時代は、自由主義の時代ですね。殊に、中学から一ツ橋 …今の東京商大ですが…にはいった頃は、第一次欧州戦争だったけれど、この時は、日本なんてものは実に火事場泥棒みたいなもので、戦争らしい戦争はしなかったわけですが、都会と田舎の相違はあるかもしれないけれど、私の東京に住んでいた経験では、私など日本というものをむしろ全然考えなかった時代なんですよ。ですから、その後満州事変以来、社会情勢が緊迫してきて、日本というものをおしつけられるようになると、むしろわれわれはそれに疑惑をもち、反撥を感じましたね。
木村 私たちの感じでは、先生たちの世代は、日露戦争などを通じて、民族的な国家意識の高まり、ナショナリズムの高まりの中で、少年時代を送られて、それぞれナショナリストとして育たれたように思っておりましたが。
浅野 それは、正確に言うと、私たちよりも一世代前の世代ですね。私はこういう経験があるのです。私を信仰に導いて下さったのは、森明先生ですが、教会でひどく叱られたことがある。森先生は、日本ということをよく言われましたよ。ある時、「先生、そんなに先生のように日本、日本と言われなくたって、われわれは日本人じゃないですか。それを特別に日本と言う必要があるのですか」と言ったら、大変叱られた。もちろん、個人差はあるでしょうが、むしろわれわれは日本的な意識はうすかったですよ。
木村 そう致しますと、日本が戦争の泥沼にはいって行くというその動向に対して、先生も非常に責任ある世代に属しておられたと思いますが、それに対してどのようにお考えになられましたか。
浅野 私としては非常に批判的でした。
木村 そういう先生の30代が、ちょうどマルキシズムが日本の社会を風靡した時代だったわけですが、それに対しては先生はどのようにお考えでしたか。
浅野 私の育った学校が学校だっただけに、関心が全然なかったわけではありません。面白いことに、森先生がこれに大変興味を持たれて、私にしきりに勉強しろと言われましたよ。そんなことで、少しは勉強しました。
福田 先生が受洗されたのは大正時代ですか。
浅野 16の時ですから、そうです。その時分の私などの信仰は、今のように神学などというのはやかましく言わない時代でね、従ってイエス・キリストの十字架とか復活とかは …森先生は十字架の信仰ということは強く言われましたが… キリスト教全体としてはそうではなかった。むしろリベラルでした。従って、キリストの人格ということは非常に強調されましたが、キリストによる贖いとか復活による生命とかは、あまり学びませんでしたね。

  戦争に対する抵抗  

木村 先ほども申しましたように、日本を有史以来の大国にしたのも、今老年期を迎えられた大人の方たちであり、また一方それを戦争から敗戦の破局に導いたのも大人の方たちなんですね。そういうことに対する反省とか責任とかについて、どのように先生はお考えになられますか。
浅野 私は一介の牧師だったし、だから決して十分だったとか徹底しているとは言えないのですが、私は私なりに講壇からずいぶん抵抗しました。満州事変の頃でしたか、矢内原さんといっしょに、平和講演会をしたことがありますが、それから矢内原さんは当局ににらまれて、大学を追われることになるわけですね。抵抗はしましたが、しかしそれでは、軍隊へ行くことを拒否したかというとそうではない。そこまで徹底はしなかった。
 私が本当に責任を感じたのは講壇です。今でも教会で私を親身になって助けてくれている中学時代からの親友があるのですが、その人は官吏だったのです。だんだん戦争が激しくなった頃、私が講壇で批判的なことを言うものですから、自分は官吏の立場として居たたまれなかったわけでしょう。ずいぶん抗議されました。その人だけでなく、ほかの人たちからも。
 それから、若い人たちはいやでもおうでも軍隊に行くでしょう。その人たちにどう言っていいかも分からない。とめるわけにもいかない。心から励ます気持にもなれない。ずいぶん苦しみました。ですから、私が召集を受けた時、正直のところホッとしました。これで自分も若い者たちと同じ立場になれるんだとね。
福田 そういう教会の中での先生の時代の問題に対する考え方に対して、抵抗を感じられた方は多かったでしょうか。
浅野 そんなに多くはなかったでしょうけれども。また逆に、そういう批判がなされたがために、私の教会に集まって来た人もあったわけです。
木村 戦争中の教会は、ほとんど大部分礼拝の中に宮城遥拝を入れていたようですし、ずいぶん愛国主義的、好戦的説教もなされたように聞いております。しかも、戦争に対して非常に積極的であった当時の教会の指導者であった老人の方たちが、戦後も同じように指導的な地位についておられるのを見て、いったい御老人の方たちに戦争に対する責任感はあるのだろうかと、ずいぶん疑問に思っていたのですが、先生のお話を伺うと、僕たちと同じ共通の問題意識を持っておられることが分かって、大変嬉しいのです。
浅野 もちろん、私のような人ばかりではない。しかし、私のような考えの人もおられたということも言えますね。

  国家意識における世代の相違  

福田 先ほど、先生の世代における国家意識のことが問題になりました時、先生がそれはあまりなかったと言われましたが、そのある、ないということにしても、若い者たちと違うのではないでしょうか。先生はやはり、国家というものに対して、たとえ批判的であっても、それに真剣に、良心的に参与してゆくという気持は強く持っておられるのではないかと思いますが、若い人たちには、そういう強烈なものはないのではないかと思いますが。
浅野 そうかもしれないな。
木村 確かに、今は、一つの国家的な目標のためにエネルギーを結集しようというような気持はないですね。
浅野 私の場合は、森先生に反撥しながらもやはり影響を受けていたのですね。もう一つは、私は旧約聖書を若い時分からずっと学んできましたからね。いきおい、民族的、国家的あるいは歴史的な関心を持たざるをえなかったということはあるでしょうね。
福田 僕らがそのような国家意識を持てないのは、やはり時代の違いがあると思うのです。戦前の世代の人たちは、国家と運命を共にして、自分たちの未来を切り開いて行こうという意識があったのだと思いますが、僕らが育った時は、冷戦が始まった時代ですし、そういう意味で、最初から世界が自分たちに重くのしかかって来て、自分たちが新たに国家というものを造って行こうという意識が持てないような状況から僕らが出発したということがあるのではないでしょうか。
浅野 それはあるでしょうね。しかし、それでは私たちが小さい時から日本とか国家とか言われたかというと、そんなことはないですよ。そこの辺を、もう少し考えてみなくちゃならないのではないかな。
木村 国家意識と言えば、かつて天皇を中心として日本の指導者層が造りあげたようなものが今まではすぐに連想されて、それには僕たちは反撥して来たのですが、僕としても、日本の外に出て感ずるものは、やはりそれとは違った日本ということですね。私はWSCFの会議で2年前にインドに行きましたし、その前の前の年にはフィリピンに行ったりしましたが、その時にはやはり、日本から送られて来ているというか、日本人として日本の問題をじっくり考えなければならないのだということを、本当に考えさせられますね。外に出ますと、普通日本人として感じていない国家意識というものを、「ジャパン」という言葉でつくづく感じさせられますよ。
浅野 そうなんですよ。それが当たりまえですよ。
木村 それで僕がフィリピンに行って感じたことですが、戦争の末期に、日本の軍隊が非常な残虐行為をした。それに対してフィリピン人は …日本人はそういうことを知らないし、また忘れているのですが… それを非常によく記憶しているのですよ。そういう時に、フィリピンの人が日本人にする質問は、「お前は戦争中にいくつだったか」ということです。それで僕が五つか六つだったと答えると、「それではお前は戦争に責任がない。お前は軍隊にいなかったのだから」と言われる。しかしそういう時に感じたことは、責任がなくとも、その時五つか六つだったとしても、日本民族として、戦争で日本が犯した罪に対して連帯する責任を感ずる、だからこそ日本が本当の意味で平和な国家としてよみがえらないと、そういう国々に対する責任を負えないし、またそういう国々からよせられている期待を裏切ることになるのではないかと、僕なりに感じたのですが、そういう意味での国家意識につながって行くことはありうると思いますね。
浅野 日本がそういう罪を犯したにもかかわらず、敗戦を迎えてからその後の苦しみ方が足りなかったのではないかということさえ、私は思いますね。占領軍によってもっともっと苦しんでいたならば、もっと国家ということを真剣に考えたかもしれない。

  抵抗の精神  

木村 先ほども話に出ましたが、今の青年は、小市民と言いますか、まあなるべくいい大学にはいって、そしていい成績をとって、いい会社に就職して、いいお嫁さんをもらって、郊外に家を建てて、というようなルートが既成概念として出来ている。僕の友達の中で、もう老後のことを考えているのがありますよ。そういう人は多いですね。
福田 確かに、それが僕たちの世代の特徴だと思いますが、しかしその大きい原因は、自分たちの未来像がないということではないでしょうか。それは、やはり明日の歴史ということが、原子兵器の発達によっていつ戦争が起こるか分からない、そういう時には保証されない。もちろん、終末論的な生き方を要請されているという面もありますけれども、輝かしい未来の歴史像を描こうとしてもそれが不可能であるということから来るのだろうと思うのですが。
木村 それが結局、自分たちのからに閉じこもって行こうとする生活になって行くのですねえ。
 そういう点から考えると、先生たちのお育ちになったリベラルな雰囲気というのは理想主義的な追求の仕方であり、また一方では立身出世主義的であったかもしれないけれども、何か切り開いて築き上げて行けるんだという、明るい未来に向かって歩めるような時代だったのではないかと思いますが。
浅野 それは全体としてはそうだったでしょうね。ただ、こういうことを伺いたいように思うのです。なるほど、今福田君の言われたように、今日、未来が閉ざされているということは事実でしょう。これは、日本だけでなく、世界的な現象かもしれません。しかし、閉ざされているから何もしない、何もできないということで、いいかどうかという反省も必要ではないか。それであるにもかかわらず、その中にあって、私共が何か光を見いだして行こうという努力から、未来像も造られて行くという面もあるのではないか。そういうことをもっと考えてもらわなくちゃ困るなあ。未来像がちゃんとあるからできるが、ないと何もできないというのではどうかな。
 それは、個人についても言えるのではないかと思うんですよ。金持の家にでも生まれて、余裕のある、前途洋々に見える人間が本当の仕事ができるのか、あるいはその日その日を追いつめられるようにして生き育って来た人間が本当の仕事ができるのか、どっちでしょうかねえ。
福田 僕たちが信仰者として時代の問題にもっと積極的に生きて行きたいという気持はあるわけですが、しかし信仰者として生きる場合に、どうしても教会というものをその基礎としたいと思うわけです。しかし、平和の問題一つとっても、戦前派、戦中派、戦後派という大きな三つの世代を考えてゆくと、その間に非常に断層がある。先ず教会内に非常に大きな考え方の相違があって、教会を基礎としたいという願いを持ちながら、既に教会内に閉ざされた世界を見いださざるをえないのです。
浅野 平和ということに限らず、今の教会には、抵抗して行こうという精神が乏しいのではないかと思いますね。道のないところにも道を切り開いて行こうという気持が少ないのではないか。
 私は今度新しく小さい教会を始めたのですが、身体障害者の人が多いのです。そういう人たちが本当に抵抗する精神が、教会によって与えられなければ、社会福祉がどんなにこれから発達してもだめだということを本当に感ずるのです。
木村 抵抗する精神というのは、どういうものですか。
浅野 どんな状況に置かれようと、その中でおしつぶされないで、また馴れあいにならないで、人間として生きて行くということですね。
福田 僕は、学校で大塚金之助先生のゼミナールにはいっておりますので、中国の今の状況についていろいろお話を伺う機会があるのですが、今の中国には世代の差や開きがないというのですね。若い者は、老人に、今の国家というものをいかにして築いて行くかということを謙虚に聞こうという態度があるし、また老人も今まで帝国主義と戦って、社会主義的な基礎を築いてきたという経験を、若い者に謙虚に、しかも誇りをもって教えて行こうとしている。そういう話し合いができているというのですね。これは、僕たちの今の教会の問題に対して学ぶべきところが多いのではないかと思うのです。その点、今もお話に出ましたけれども、直接戦争の責任を負って来られた方々の、戦争責任に対する意識が非常に弱くて、いいかげんに終わってしまったのではないかということを考えさせられましたけれども、僕たち若い者の側からすると、僕たちには直接戦争の責任をまぬがれているという意識があるのですね。戦争に対しては無罪だという気持の方がむしろ強いのです。それに対して、僕たちの上の世代に対しては、責任の弁護の余地がないのだという批判的な気持があって、だから御老人の方から、若い者にいろいろ忠告があっても、それを聞く気になれないということがあるのです。
浅野 老人として大いに反省をうながされるところですね。老人は、戦争で何度か日本が儲けてきた経験もあるし、今度の戦争でも、責任を負って責任者が追放になるということもなかったし、そういう点では本当に戦争責任を身に負っているとは言えないのですね。だから、中国とは違って、若い人たちとお互いに話しあう精神的基盤はないわけですね。
福田 しかしやはり木村君も言われたように、若い者たちが創造的な責任感というものに目ざめる必要もあるわけですね。        

  平和を造り出す  

木村 僕の狭い範囲の見聞ですが、沖縄へ行っても、香港へ行っても、タイへ行っても、どこへ行っても、日本の軍隊の足跡が残っているのですよ。そういう戦争のことが、戦後日本では、「もはや戦後ではない」というわけで忘れられているような状況の中で、キリスト者がこういう戦争と平和というものを考えないと、特に若い世代の者が真剣に考えないと、一体誰が考えるのかと思うのです。
 特に戦争に対する反省という段階よりも、もっと積極的な意味で、日本の若いキリスト者が、特に東南アジアの無医村とかに積極的に出て行くことが必要じゃないのか。向こうでは医療技術が遅れているものですから、教会を通してそういう人たちを送ってきてほしいというのですが、人がいないわけです。ネパールにはこの間若い看護婦さんが二人行かれましたが、そういう働きが本当の意味で平和を創造して行く働きにつながっているように思うのです。
浅野 日本のキリスト者の平和運動は、もう少しものを具体的に考えられないだろうかと思いますね。間接でも平和につながる具体的なことを、どんなに小さくてもよいからやり始めなくちゃいけないのではないかと思いますよ。
木村 キリスト者医科連盟なんかを積極的に助けるとかですね。ネパールのカトマンズで感じたのは、あそこにキリスト教の病院があるのです。そこに「パックスマン」と言いまして、いわゆる良心的戦争反対者の人たちが送られて来ている。学生時代が終わると兵役につかなければならないのを拒否して、ネパールで2年ぐらい働くわけです。そういう働きを見るにつけ感じることは、ともかく今世界で兵役義務につく必要のないのは、日本の若い世代だけらしいのですよ、それにわれわれはあまりに安易になっているのではないか、もっと積極的な奉仕のあるべき姿があるのではないかということです。こういうことを、平和運動との関連においても考えますね。
 それから、福田君も、教会の中に平和運動の足場がないということを訴えられましたが、僕たちもそれを久しくなげいていたのですけれど、青年会の中に今度、平和問題を考えるグループを造りまして、長老会の方たちにも来ていただいて、話しあおうということにしているのです。この間も、チェコのオポチェンスキーさんと会った時に、そういう教会の中にある若い人たちのグループの中から、プラハの平和会議に代表を送りこむような、国際的なつながりを見いだして行くような動きが出てくるようになればよいということを話しあったのですが、そういう具体的な事柄を通して、教会内で世代の間のコミュニケーションを円滑にしてゆくということが必要ですね。

  新しい世代による教会形成  

浅野 諸君の話を聞いて実に頼もしいし、愉快ですね。私はかねがね私の教会の若い人たちについても、やはりたのもしいという感じを持っていますよ。どういう能力であるにしろ、どういう境遇にあるにしろ、こういう人たちに期待をかけて行かねばならない、そういう気持ですよ。若い者は駄目だなんて思ったことは私にはないな。
木村 これはどうも有難うございました。先生の目からごらんになったら、僕たちなんか歯がゆいんじゃないかと思っていたんですが。
浅野 いやいや、そんなことないですよ。僕は、戦後の窮乏の時代に、教会で若い人たちと苦労したのですが、全部ではありませんけれども、いっしょに教会で働いた中心になった人たちは、もう三十歳を越しましたが、今でも信仰を失わないで、そしてそれぞれ特色ある仕事をしていますからね。これは実に有難いことだと思っているのです。
木村 先年、クレーマーさんが来られて、日本のキリスト教界を毒している最大のものは悪しき敬老精神である、教団にしても教会にしても、結局、老人が、若いものは頼もしいとか何とか言いながら、なかなか実権をゆずらない、こういうことでは日本の教会の先行きは見えている、まずこの悪しき敬老精神を直せ、というようなことを言ったのですが、これについてはどうお考えになられますか。もちろん、先生はその大きい例外であると思いますが。
福田 教会の長老会の組織なんかを見ても、やはり年功序列制的なところがありますね。
浅野 私は、みんな若いものにしたらいいとは思わないのです。だんだん変わって行ったらいいと思うのです。けれども、若いものがそこへはいって行かないというのでは、それはいけないと思うのです。牧師の指導とか何とかでなしに、教会全体として、年よりも重んずるけれども、若い人にも働いてもらうというのが、これはもう教会の空気ですよ。これは組織とか工作とかということではないですね。時の必然であり、自然の勢いであって、老兵は消えて行かなければならない。しかし、老兵はそれをいたずらに嘆くのではなくて、喜んで若い者にやってもらうという空気が当然生まれてくるべきですよ。それがそうならなかったらおかしいよ。
木村 そのおかしい状態がそのままなかなか変わらないところに、日本の教会の問題があるのではないでしょうか。
浅野 だからわれわれがそれをこわして行かなきゃならない。
木村 老人の方々が今はだんだん元気になって来て、活躍できる期間がずっと長びいて来ている。にもかかわらず、早く去っていただかないと、若い人たちが育たない。そういうジレンマがあるわけですね。
浅野 それなら、老人は老人で活躍する分野を自分で探せばいいだろう。
木村 それが何かということが問題なんですね。
浅野 それはありますよ。若い者にはできないとは思いませんが、非常にむずかしい、しかし老人なら、今までの知識経験を生かしてやって行ける、そういう面が、伝道の分野ではずいぶん多いと思うのです。都会の教会は若い人たちに任せたって出来ますよ。しかし、田舎の開拓伝道は、若い人たちでは困難だし、可愛そうだと思いますね。私は生命があったら田舎へ行こうと思っていますよ。
木村 僕の教会にも、20年、30年ずっと長老という方が多いですね。僕は、何十年という信仰生活を生きぬいて、実際に老人になっても信仰生活を続けて教会に来ておられるという姿を見ると、非常に励まされるし、本当にえらいと思いますね。
浅野 それはそうですよ。日本のような国では特にそうですね。しかしそうだからといって、そういう人がいつまでも長老をしなければならないということにはならない。そういうことと長老とは別問題ですよ。何も老人を排斥するわけではないが、老人でなきゃ長老になれないということはない。
木村 ただ一つは、老人と若い人とは教会の中には比較的多くいると思いますが、真中の、若い者と老人との間の橋渡しになるべき世代の人が教会に少ないのではないかということを感じますね。
浅野 それが問題なんですね。日本の教会の一番大きい問題はそれなんですよ。社会の第一線の人が教会に来ない。そういう人が一番戦いが多いはずですよ。その戦いのための生命とか力とかを教会が供給することができなければ、これは嘘ですよ。

  信仰の古さと新しさ  

福田 初めに、先生が信仰にはいられた頃の信仰の捉え方は、今の若い人たちの場合と違うとおっしゃいましたが、先生として、今の若い人たちの信仰についてどう考えておられますか。
浅野 そうですね。私はこういう疑問を多少持つのです。今の神学は、キリストの十字架と復活、あるいは教会ということをやかましく言いますね。それが本当にはいっているだろうか、という疑問を持つのですよ。私なんかなかなか十字架とか復活とかいうことが分からなかった。それが森先生がなくなることによって、それがきっかけになって、先生がしょっちゅう言われておったことは本当だったというように思うようになった。復活ということも、自分の小さい子供をなくすることによって、初めてお腹にピンと来たように思った。これは私のようなぼんくらだけでなしに、内村さんのような方でも、ルツ子さんをなくして、それから復活ということを非常に強く言われるようになったんですね。あんな偉い人でもそうなんですよ。だから、私から言わせれば、若い人がよくあんなにスルッとはいるもんだなあと思うんです。その点問題を感じます。だから私は若い人に、そんなにスルッとはいるなと言ってるんですよ。
木村 信仰の告白ですから、実感としてはいるはいらないということにそうこだわってはならないのではないかと、僕たちは思っていたのです。
浅野 そうかもしれないな。僕たちでも若い時にそのように言われれば、そうしたかもしれないな。
木村 僕たちでも、ひところ威勢よく、十字架を負うとか、殉教とかいうことを、やたらに乱発したことがあったんです。そうしたら、ある長老さんに、「十字架ということをみだりに言ってはならない」とたしなめられたことがありますが、そういうふうに、老人の方に若い者たちのグループにはいって来ていただいて、そういう体験的なお話を伺うことができる、そういうところで若い者たちが信仰の証しを受けついで行けるという時を、もっともっと教会の中で持ちたいと思いますね。だから、今の先生のお話を伺いますと、安心しますよ。
 僕たちは、何か分からなくちゃいけないと思いこんで、信仰の対象だからともかくこれで分かったことにしちゃえという焦りみたいなものがあるんですよ。しかし、浅野先生ですらそういうことになりますと、僕たち若いんですから、非常に安心しますね。やはりそういういろいろな信仰体験を語りあい、分かちあう場所としての教会の形成が本当に大切ですね。
 何と言いますか、僕たちにとっては、教会で年上の方がえらく見えるんですよ。御老人の方々にしても、破れを見せたがらないと言いますか、偉大な信仰生活を重ねて来ている者として、非常に取りすました態度でいるということが一面ではあるわけですからね。
福田 だから自分たちの問題を出しにくいという面がありますね。
木村 そういう時に、自分のいろいろの具体的な問題に、善きアドバイスをし、そして本当の意味で指導して下さる方こそ、永遠の青年でしょうね。
福田 やはり日本では、老人は円熟した成人、青年は未熟であるという観念が出来ている。だから、そういうところでは、老人は本当に自分の破れとか悩みとか苦しみを、心を開いて語ろうとしないのですね。一方では、若い人たちも、老人を完成した人間として見たがる。そうなると、もう自由に語りあうということができなくなるわけですね。今ここで必要なのは、老人も若い者も、本当に人間であるという基盤に立って、新しく語りあうということではないでしょうか。
浅野 私自身は、学校でも教会でも、若い人たちとの間に何の障害も感じませんね。なぜ老人として垣を造らなきゃならないか、それが分かりませんよ。間違っていたら直しゃいいんだし、相手の間違いに気づいたら率直に指摘すればいいんですからね。
 ともかく私は、こんな年になりましたが、今こそ特に自分に正直になりたい、自分が本当に納得のいかないような生き方はしたくない、もちろん完全には行かないかもしれないけれども、少なくとも僕はそういう生き方をしたいと思っているのです。
福田 先生のような御老人の方からそういうふうにおっしゃられますと、僕なんかいつも年上の人、老人の方たちに上からのしかかられるような生活をしているのですが、尻ごみしないで、自分たちとしてすべきこと、言うべきことであれば、それをして行こうという、若々しさを具体的に生かして行けるように思うのです。
浅野 それでいいじゃないですか。もちろん誰だって間違いはありますよね。特に青年はそうかもしれない。しかしそれでいいんじゃないかと思うのですよ。老人たちがその時には後始末をすればいいと思うのですがね。
木村 今日はどうもわれわれが浅野先生に煽られたような形になったのですけれども、本当に先生が1800年代にお生まれになったとは思われない若々しさでお話し下さったんで、何か共通な点が多くて、本当は先生と大いに対決する気持で参りましたが、終始先生のペースの中でお話をしたように思うのですが、そういう意味で本当に福音の力というものが現実に生きている姿を先生の中に見いだして、非常に励まされ、教えられた次第です。私も、年をとりましたら、先生のようになりたいと思うんです。
浅野 そんなことを思っていると、とんでもないことになりますよ。
 今日は私も楽しかったですね。諸君と話していて、通じないということがなかったのは、本当に愉快でした。       

[:本文は1963年(昭和38年)11月1日発行のキリスト教雑誌『福音と世界:特集・老人の問題』11月号(新教出版社)に掲載されたものです。]


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