■仏教・別冊4 (法蔵館), 1990. 11., pp. 106-110.
■脳死・生命倫理 いのちの主権者としての個々人の価値判断を専門家に任せきってしまうのが危険なことは、現代では誰の目にも明らかだ。
なぜ専門家の教育が必要か
- バイオエシックスの立場から -
木村利人
私たちは、専門家といえば特定の分野の事柄について高度の知識を持ち、修練を積み重ね、信頼するに値する権威として学問や職業に従事している人であると思ってきた。
しかし、社会的にも人間的にも尊敬される専門家としての責任と役割を充分に果たしているかどうかについて、深刻な疑問を抱かざるを得ないような事態が現在起ってきていることもまた、否定できない事実である。
それはなぜだろうか。ここではバイオエシックスの由来を考え、その立場から「職業倫理」の在り方についてアメリカでの一事例を分析し、専門家の教育について考えてみたい。
医学、生物学、法学、神学、宗教、哲学、倫理学など様々な学問分野を統合したかたちでの「超学際的」なバイオエシックスは、先端医科学技術・生命科学などの急激な発達に伴って、臨床や研究・実験の現場での倫理的価値判断の必要性から生まれてきた。しかしバイオエシックスは、「応用倫理学」としてスタートしたというよりは、1960年代の「いのちを守り、育てる」全世界的な様々な運動の広がりの中で、まずコミュニティに根づいていった。
たとえば患者の権利、インフォームド・コンセント、ホスピス運動、反差別 (就職・人権)、女性解放、消費者運動、環境・自然・動物の保護など、今までの発想が根底からくつがえされることになった。それは、いのちの主権者としての一人ひとりの価値判断を、他人や専門家と称する人に委ねることの危険性が、はっきりと誰の目にもみてとれる事態が続発したからでもあった。そして、こうした非専門家であるごく普通の一般市民の「いのちを守り支え合う」ネットワークづくりが、やがて未来を切り開いていくための新しい価値観や、社会的合意の形成を目指しての「公共政策」を生みだしてきた。
したがってバイオエシックスは、医療・医科学のみならず、ビオス (生命・生物・生活) のすべてに関わりをもつ、人間の尊厳の主張に根ざした人権運動であり、公共政策づくりに由来する。つまりバイオエシックス (生命倫理) は、旧来の医療専門家中心の「医の倫理」とは、その発想も方法論も体系もまったく異なる新しい学問分野であり実践運動であるということを、基本的に理解することが重要である。
前記のようなバイオエシックス運動を生み出す基盤となった価値観の変動は、旧来の専門家の役割に大きな影響を与えた。たとえば、医療や看護の分野でいえば、旧来の権威的、温情主義的な患者への態度はパターナリズムとして否定され、患者と対等な人間としてのコミュニケーションを前提としたインフォームド・コンセントの考えが臨床の現場で受け入れられるようになり、一方的な上からの患者のための医療という考え方は、患者の価値観を充分に尊重した「患者中心の医療」へと変わっていった。米国病院協会 (AHA: American Hospital Association) による患者の権利宣言 (1972年) などもこのような変動の成果であった。
次にとりあげる看護専門家と患者との関わりも、バイオエシックスの視座から見て極めて重要な事例となっている。
アメリカのアイダホ州で問題になったケースとして、医師が入院患者を診断し、その結果を告げたことに関連したものがあげられる。医師から「あなたは悪性の白血病で、化学療法 (Chemotherapy) による治療が一番よいと思う。これしかほとんど選択の方法はない」と言われてショックを受けた患者が、看護婦に、「私は医師に化学療法をすると言われたけれども、それだと毛は抜ける、体は急激に弱くなる。私はそういう治療はしたくない。看護婦さんどう思いますか」と尋ねた。看護婦は聞いているうちに、患者の言っていることは非常にもっともだということで相談にのった。
この場合、患者は、実は癌ではないかということが自分である程度わかっていて、「化学療法ではなくて、自然食にライフスタイルを変えて、いままで何年かそれで暮らしてきたのだから、これからもそういうふうにやっていこうと思うけれども、看護婦さんどう思いますか」などと問いかけ、看護婦は「その方がいいかもしれませんね」と応えたりした。つまりそれが結果的に医師の指示する治療の拒否に結びついたということである。それが患者の家族から医者に伝えられ、「看護婦さんがうちの娘と話したために、化学療法を拒否するという事態になってしまった。だからあの看護婦は困る」ということになったわけである。
家族の申し出によって、医師がその看護婦の立場を問題にした。つまりこの看護婦は、医師の指示に従って患者への医療行為を行うということに違反した。すなわち看護婦の職業倫理にもとる行為であって、患者の自身の治療についての質問に対して、「それも一つの考え方だけれどもお医者さんが正しい」ということにすれば問題はないのに、一生懸命相談にのって、結果的には医師の指示に反することになってしまった。この看護婦の行ったことは「反職業的行為」だとして、アイダホ州の看護委員会は六ヶ月間免許を停止した。
ところが、この看護婦はそれに納得せず、アイダホ州の最高裁に提訴した。もちろん最高裁では判断が覆され、その看護婦の行為は「反職業的行為」ではないとされた。その理由づけは、看護婦というのは患者と話をし、コミュニケーションするように訓練されている専門的職業だ、という考え方であった。ここで旧来の看護業務の質の転換が起きていることに注目すべきであろう。看護婦は患者を守るという立場を貫く、従って看護婦というのは患者の人権を守る人である、という考え方が明確にされたわけである。
看護婦は、従来は職業専門家としては、医師の指示に従わなければならなかった。つまり看護業務専門家としてそれなりに医師をサポートするという考え方で、以前は患者が何を言っても医師が駄目と言えば、それに従うべきものとされた。しかし、現在のバイオエシックスの基本的な考え方では、看護婦は患者の立場に立ち、患者の権利と尊厳を守る人という考え方なので、そういうふうにトレーニングされた職業専門家として患者とコミュニケーションすることは、「反職業的行為」にはならない、というのがアイダホ州の最高裁の決定で、この看護婦は免許停止を撤回されたのであった。
さらに次の問題は、医師の指示が誤りだと思ったときには看護婦がそれを「否」と言える権利があるかどうかということである。従来、看護婦は、医師の判断を尊重するのが建前になっていた。しかしアメリカでは、看護婦が医者の言うままにしてミスをおかせば、責任を問われることはいうまでもない。手術担当医が仮に手術の現場で、ある特定の処置をする必要はないとして看護婦に指示を与えず、全部処置を終えたあとで何かミスがあったとすると、その場にいた看護婦の責任が問われることがある。医師の命令に従ったのだから自分には責任がないとは言えない。
権利があるというのは責任があるということであるから、仮に医師が一つの行為、例えば手術のプロセスの中で誤った判断をして、それを看護婦が質しても、指示通りにしろと言われた場合には、確認をとっておく必要がある。手術には様々な緊急事態が起りうるが、責任を問われないために米国の看護婦がどのようにしているかといえば、どういう事態が起っても、あの時はこういう指示で処置をしたなどと、手術が終わってからすぐにメモに書いておく。そのメモが、裁判になったとき重要な文書として極めて役に立つということになってきている。医事訴訟が増えてきている状況をふまえて、看護婦は医師に非常に問題があると感じた場合、あるいは指示に誤りがあったときには、はっきりとその理由を確かめなければならないということでもある。なぜならば、患者を守るのが看護婦の責任であり、ただ黙って医師の命令に従うのがその役割ではないからである。
看護婦は専門家として独立した権利を認められると同時に、患者中心の医療を行っているかどうかの責任を問われる時代になってきている。アメリカではまた、医師と対等の立場での、自信に満ちた看護婦のコメントがいろいろなかたちで活かされ、専門的な医療の中心にいる非専門家としての患者の価値観と人権を、最大限に尊重する時代になってきている。
専門家が専門家であり得るために最も重要な要素の一つは、その「倫理綱領」にある。社会一般との、そして一人ひとりの市民、個々人との信頼の基礎は、専門家内部集団の倫理綱領の内容がいかに守られているかにある。例えば、米国医師会 (AMA: American Medical Association) は次のような倫理原則を定めている。
「米国医師会の医の倫理原則」(1980年)
<前文> 医業専門家集団は長い間にわたり、主として患者の利益のために展開されてきた倫理宣言の総体を承認してきた。この専門家集団の一員として、医師は患者に対する責任のみならず、また社会や他の保健職業専門家及び自己への責任を認めなければならない。米国医師会により採択された次の諸原則は法律ではなく、医師の名誉ある行動にとって本質的なことを定めている行動の基準なのである。
I、医師は人間の尊厳への同情と尊重の念を持って適切な医療を与えることに献身しなければならない。
II、医師は患者及び同僚医師に対し正直に対処し、人格またはその能力に欠陥を持った医師及び詐欺、または欺罔に携わる医師を明らかにすべく努めなければならない。
III、医師は法律を遵守するとともに、更に患者の最大の利益に反するような諸要件の変更に努力すべき責任を認めなければならない。
IV、医師は患者の権利、同僚医師及び他の保健職業専門家の権利を尊重しなければならない。また、法の制約の範囲内で患者の秘密を擁護しなければならない。
V、医師は科学的知識の学習、応用を、推進継続しなければならない。また相互に関連する情報を一般の人々に得させ、必要に応じ他の保健職業専門家の持つ能力を活用しなければならない。
VI、医師は患者に適切な看護を供与するに当たり、救急の場合を除き、業務を遂行する相手方、共に業務を行う者、及び医療を供与する環境を、自由に選択できるものとする。
VII、医師はコミュニティ (地域共同社会) の改善に貢献する諸活動に参加すべき責任を認めなければならない。
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現在、数々の国際専門機関・国際学会で、医療・看護など様々な専門家集団の職業倫理規定についての合意が成立し機能していることはいうまでもないが、わが国においてはそのような伝統や意識も乏しく、国際的職業倫理基準を宣言し受け入れても、これを遵守するどころか、仲間内でかばいあい、なるたけ社会的批判を受けないように事態を覆い隠してしまうことさえあった。
専門家が一般の人たちにわかりやすい言葉でコミュニケートすることによって、社会的責任を果たすことが、わが国において常識となるのはいつのことであろうか。
専門家に対する教育の重要性を、バイオエシックスはその学問形成の当初から指摘してきた。専門職業倫理はもちろん、一般の専門家でない人々からの問題提起を専門家が正しく受け止めるための様々な試みが、バイオエシックス教育の中でなされてきている。この基本の考えは、むしろ一般素人こそが、専門家を教育しなければならないということなのである。今わが国において、このような旧来の権威主義的な専門家のあり方を根本から変革することをめざしたバイオエシックス教育に着実に取り組むことこそ、当面する脳死と臓器移植をめぐる問題の場合にも緊急課題の一つとなろう。
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