■「看護学雑誌」, 48 (1), pp. 101-104., 医学書院, 1984. 1.


第1講. バイオエシックスの視座 Prof. Rihito Kimura wearing a smile
木村利人

ルーツを探る

 今回からシリーズで、皆さんと共にバイオエシックスについて考えていきたいと思います。各回とも、なるたけ具体的な事例を取り上げつつ、バイオエシックスと看護に焦点をしぼってセミナーを展開したいと思います。
 しかしバイオエシックスには、何と言っても、その基本の理解が必要ですし、その共通の了解事項を欠くと、次の段階への展開が困難となります。既にバイオエシックスの内容について、ある程度理解されている方々があるかとも思いますが、第1回目はバイオエシックスのルーツを探り、バイオエシックスに特徴的な視座を分析してみたいと思います。
 このポイントを押さえた上でないと、バイオエシックスが、ある意味での'価値観と医療や看護'についての'技術'とその'応用'になりかねないのです。バイオエシックスの発想自体が、このようなハウ・ツー(how-to)的アプローチを問い直すことからスタートしているのですから。

生命操作の時代

 現代は、言うまでもなく'生命操作の時代'です。遺伝子操作、体外受精、臓器移植、延命装置、精神や身体のコントロールなどに示されているように、私たちの'生命'はほとんど'自然'にまかされることなく、色々人工的な操作を受けているのです。
 この'操作'という言葉には2つの意味があります。1つは、もちろん機械や装置などを動かして働かせるという意味ですし、もう1つは物事を自分に都合良くするために他人に知られないように巧みに操るという意味です。
 私たちが'生命操作'という用語に感じるのは、この後者の否定的な表現です。果たして'生命操作'をしていいのかどうか、その限界はあるのか、また、誰がするのかといった事と真剣に取り組まないと、大変な事になるのではないかといった思いを、この表現の中に感じ取らざるを得ないのです。
 特に、この約20年間の生命操作技術の発達のスピードは、想像を上回ってしまうほどでした。確かに人間は操作し、物を作り出していく動物、'ホモ・ファーベル'(homo faber)ですから、この特性を人間から取り去ることはできないでしょう。
 しかし、人間自身の生命の根源を作り変えたり、新しい生命を創り出したり(人工のバクテリアや動物)、あるいは永遠に(?)死の過程を延長する機械を開発したり(もちろん基本的には延命─生命を延ばすことは善だとする価値観がありますので、伝統的に医療はこれを当然としてきましたが)するようになってくる中で、果たして人間の尊厳とは何か、自由とは何か、無制限に何事かを作り続けていったら、結局は滅びるのではないか、という深刻な問題に立ち向かわざるを得なくなってしまったのです。
 バイオエシックスは、このような新しい恩恵(例えば新薬の開発や農産物の改良は、遺伝子組み替え技術により大幅に可能となります)をもたらす可能性と、また反対に大きな脅威(人工生命物による環境汚染や人類への攻撃や生物化学兵器の開発と誤用・悪用など)ともなり得る'生命操作時代'の中で、人間と自然や環境や社会、そして科学技術や医療・看護などとの関わり方をめぐっての価値観の基準を問い直し、それを通して人間と人間との真の関係を、未来に向けて'全人的'に回復するために生まれたものであり、これこそ"バイオエシックス"という超学際(supra-inter-disciplinary)的な学問分野なのです。
 このバイオエシックスは、伝統的な'医の哲学と倫理'の学問的蓄積を踏まえて、さらに生物・医科学実験(人体実験・臨床実験)などの倫理基準を作り出す作業を積み重ねつつ、'人権'に焦点を合わせた'公共政策'(public policy)として、具体的に世界的スケールで、1960年代から展開されてきているのです。
 その研究分野を表1に示しておきましょう。

表1 バイオエシックスの研究対象と領域
バイオエシックスの研究テーマは相互に複雑に関連し合っていますが、一応、下記のように大きく3つの領域が設定されています。
1 生物・医科学実験及び人間生命の始期をめぐってのバイオエシックス─例えば、遺伝子操作、人工受精、胎児実験、体外受精、胎児の保護、妊娠中絶、遺伝相談、人口政策など
2 人間生命の質の向上をめぐってのバイオエシックス─例えば、自然・社会・環境と生命、生命権・健康権・医療・保健と財政・法律・政治・経済の構造、治療と看護、人工臓器とその移植、生物・医科学専門家・医療従事者・患者・被験者を含む倫理基準・指針、歴史・伝統・文化・社会・宗教・教育とバイオエシックスなど
3 人間生命の終期をめぐってのバイオエシックス─例えば、死の判定の再定義(自然死・尊厳死などの立法)、ホスピス等における死期の看護、植物状態人間、延命装置の使用とその停止、安楽死、医療辞退など

バイオエシックス運動

 特にバイオエシックス研究の発祥の地であり、その研究の世界的な中心地でもある米国では、1950年代から70年代にかけて公民権、市民権(人種平等、就職・就学・性差別の撤廃など)を求めての強い世論とその具体的実現を目指しての活発な社会運動が大きく展開されました。
 その中で、既成の価値観や科学技術の中立性についての神話への批判も行われ、やがて、これらはベトナム反戦運動へと結集されていったのです。
 このような市民の運動と相呼応し合い、またその一般の人たちの運動の中から、1人1人のかけがえのない生命と人権を守る運動、女性の解放、情報の公開、患者・被験者の人権保障を求める運動が形成され、バイオエシックスがさらに大きく展開されることになったのです。
 私が本シリーズの第1回に特に強調したいのは、このような'人権'を守る運動の視座からバイオエシックス形成のルーツを理解し、あとづけることが、バイオエシックスを正しく把握し、未来に向けて展開させるために極めて重要だということなのです。
 "バイオエシックス"という新しい学問を生命科学や医療や看護と価値観についての抽象的な原理のでき上がった体系として捉えて、それを私たちの国の状況に合わせて応用したり、各論的に展開することにのみ注目し、焦点を合わせようとする傾向に対しては、極めて注意深く警戒しなくてはなりません。
 なぜなら表2に示したように、米国におけるバイオエシックスの社会的形成要因は、同時代史の観点から広く世界的に共通の現象ですし、私たちの国にも幅広く存在する生命や人権や生活を守るための様々の運動のルーツとはっきりつながり得るからです。
 私たちの国でのバイオエシックスとは、このようなルーツとまず結びつくところで大きく育っていくと考えられますし、また実際にすでに育ちつつあるのです。

表2 バイオエシックス形成の社会的要因
(1)公害 科学技術の急激かつ高度の発展とその弊害 - 公害 - 企業利益優先への批判: 非人間化傾向への深刻な反省
(2)生命操作 生物・医科学研究および医療の飛躍的発達・技術化・複雑化・専門化・自動化 - 生命の操作の実現 - 悪用・誤用の脅威(生物化学兵器の開発): 人間生命の尊厳と生命権の再確認
(3)公共政策 個人主義を越える発想の必要性 - 個人と社会・公共政策の問い直し: グローバルな視座と未来への責任
(4)医療 医療の社会化の動向 - 医療財源の公正な配分と使用 - 人間としての患者 - 医療従事者との新しいあり方: 消費者運動の立場からの医療サービスへの発言の強化
(5)人権 社会的少数者・被抑圧者・被差別者・弱者(病気・身体面)の権利擁護と平等、女性の権利の主張、患者の権利宣言: 立法・判例・規則・宣言の増加とその確立
(6)価値観 権威・秩序・伝統的価値基準の崩壊とその再検討 - 価値の多元化: 真の人間性とは何かの問いと模索
(7)超学際 専門領域を越えて協力し合う学問研究の定着と成果 - 学際から超学際への動向 - 特に西欧文化圏に成立した学問の普遍性への問いと批判: 非西欧文化の中での学問研究の独自の展開の必要性

超学際の視座

 さて、このようなバイオエシックスの特徴を最もよく示しているのは、'超学際'の視座です。ご存知のように、ひとつの学問の分野を《discipline》といい、色々な学問分野がひとつの目的のために協力して行う研究を'学際的'(inter-disciplinary)研究といいます。
 つまり、ひとつの学問と他の学問分野がひとつの研究目的のために交流(inter-action)し合い、協同研究をするからなのです。'国'が《nation》で、'国際的'が《inter-national》であるように、'学'が《discipline》で、'学際的'は《inter-discipline》なのです。
 1つの伝統的な大きな学問分野は、例えば医学にしても法学にしても、最近はますます細分化・専門化して全体の展望が見失われがち傾向があります。全体としてまとまりをもった1人の人間が、細分化された専門の学問分野によって、非常に狭く異なった角度からアプローチされるのは悲劇です。
 '人間'、'生命'の問題は、むしろ総合的に捉えなければ十分に理解できないのではないかという発想から、'学際的'研究が生まれ、例えば1人の人物や、ある特定の歴史的出来事や文化現象や一定の地域研究などに、ある程度成果をあげてきました。
 しかし、バイオエシックスは、このような'学際的'研究を、さらにもう一歩前進させて、'超学際'(supra-inter-discipline)であろうとします。もちろん、専門研究や学際をふまえた上で、それを超えて研究を進まざるを得ない現実の課題が、次から次へとバイオエシックスの領域に出てきたからなのです。
 今までの学際研究は、どちらかというと、一応ひとつの専門の枠組みの中から発言し、原則として他の学問領域に発言しませんでした。しかし、バイオエシックスにおける'超学際'の視座からすると、むしろ相互に関連し合う専門領域の内容にも積極的に介入して発言し、問題提起をしようというわけです。
 他人の領分を侵さないという学者同士の暗黙の了解事項に従っていたのでは、バイオエシックスの問題は解決が困難であることが分かってきたからなのです。従って、当然、衝突も起こりますし、違和感も生じます。しかし、一方でこのような開かれた学問の在り方が、行き詰まりの打開に大きな光をもたらしたことも事実でした。

医療の中心にいる患者

 例えば、医療の中心は医療従事者ではなくて'患者'であって、医療は最終的には患者の価値観や判断をふまえて医療従事者によってとり行われるという、バイオエシックスでよく取り上げられる'自己決定の原理'の発想は、旧来の医の倫理や医療の現場での考え方の主流とはなりませんでした。
 もちろん、医療においては病気にかかっている1人の人間としての'患者'がその対象であるべきなのに、むしろ'病気'そのものの治療が至上目的となり、患者自身の意向や希望、人格の尊厳までもが無視されてきたというケースがかなり多かったといえないでしょうか。
 入院してから退院するまで、タテマエはどうであっても、事実上は、医療従事者と病院側の判断と都合によりすべてが進行し、それは別に不思議でも何でもなく当たり前のことでした。もちろん、医療の伝統的な考え方である'延命第一主義'についても、当事者である患者の意向はほとんど無視されてきたのでした。
 患者こそは医療の中心にあり、自分の身体への治療処置や自分の生死に関わる価値判断については最終的な判断をする権利をもつといった考え方が、法学・神学・宗教などの臨床経験をふまえた専門家たちから指摘されたのは、まさに超学際的視座からの'医療の論理'への問題提起だったのです。
 このような'挑戦'が、患者の同意を得ない臨床実験治療の顕在化および増大する医事訴訟とあいまって、医療の基本の発想に大きな変革を引き起こすことになりました。
 つまり、旧来の医業職業専門集団内部の倫理基準ともいえる'患者の不利になると思われることは知らせない'といった権威主義的な患者-医師関係の在り方をはじめとした医業の伝統的価値意識は、大きく変化しつつあるのです。
 患者が自分についての診断結果を知る権利は人権として認められ(もちろん、知りたくない人には、言う必要はないのです)、医療においては情報を十分に与えた上での同意(informed consent)なしには、どのように医師の判断により適切と思われても患者に治療をしてはならない、との原則などが確立し、これらを含む患者の権利章典も、制度的に米国の社会に定着しつつあるのです。
 さらに、このような医療におけるインフォームド・コンセントの論理をモデルとして、組み換え遺伝子研究などの実験施設の設置をめぐっての地域住民の関わり方も証明されてきているようです。
 つまり、専門家が納得のいくように解説・説明して、市民の側に十分な情報を与え、選択の幅を示した上で、市民が政策決定過程に参加する形での最終決定に至るという方式です。
 このような例にみられるように、バイオエシックスが、実際には私たちの生活の多様な局面の中に入り込み、具体的な状況の中での'公共政策'(public policy)として展開されていることを知っておく必要があります。
 例えば、国のレベルで考えれば、'死の定義─脳死'をめぐって、どのような'公共政策'が必要となるのかとか、あるいはコミュニティのレベルでは、病院やホスピス、老人への昼食運搬奉仕などに参加するボランティアの在り方とか、いろいろ公共政策上の問題があります。
 さらに、大学や研究機関に設置されている遺伝子組み替え安全審査委員会(IBC : Institutional Biosafety Committee)や生物・医科実験の倫理的問題審査のための委員会(IRB : Institutional Review Board)の問題などもあります。
 1982年の12月にユタ大学でクラークさんに対して行われた'人工心臓'移植の賛否についても、ユタ大学の16人の委員会から成るIRBで厳しい審査が行われましたが、この委員の中には直接、大学に関係のない2名の住民代表が含まれており、1名は看護婦で、他はジャーナリストでした(大学内部よりの委員の一人として、既に'看護学'の専門家が任命されています)。
 このようなバイオエシックス関連の委員会は全て公開で、誰でも参加できますし、書類などもプライバシーに触れない限り誰でも自由に入手可能なのです。当日、会場で委員たちと同じ書類を受け取れますし、後に郵送してもらうこともできるのです。

まとめ

 さて、以上述べてきたことにより、なぜ最初に私がバイオエシックスについての基本的な了解事項の理解が重要だと指摘したのかが、お分かり頂けたかと思います。
 それは、既に20年以上の歴史をもつバイオエシックスの既成の原理や原則をどんなに学んで、応用しようとしても、それらを展開すべき'場'の状況に大きな問題がある以上(これは当然なことです。私たちの国と外国とは状況が違うのですから)、それだけでは、うまく機能するはずがないからなのです。だからこそ、バイオエシックスのルーツを最初に正確に押さえておかなければならないのです。
 もちろん、バイオエシックスの考え方それ自体が私たち自身のもの(応用のための技術ではなく)になるとき、私たちのいる'場'を変革するための起爆力となることは間違いありません。
 なぜなら、バイオエシックスが超学際の視座から学問の領域を超えて挑戦し、問題解決にひとつの大きな光をもたらしたように、普遍的な学問としてのバイオエシックスが国境を越え、私たちの国のルーツと結びつき、大きな美しい、香り豊かな花を咲かせることになることを、私は信じているからなのです。
 そして、いま私たちの1人1人が、日本でこれから芽生えるバイオエシックスの大きな可能性を内にもった1つ1つの種でもあるのですから。
(つづく)


次号/
バイオエシックス・セミナー (2)「プリーズ・レット・ミー・ダイ」に続きます。

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