■「看護学雑誌」, 48 (2), pp. 221-224., 医学書院, 1984. 2.


第2講. プリーズ・レット・ミー・ダイ Prof. Rihito Kimura wearing a smile
木村利人

ダックスさんの場合

 1973年の7月、父親と2人で不動産会社を経営していたダックス・コワート (Dax Cowart) さんは、テキサス州ダラス郊外の土地調査のため車で家を出ました。目的地のすぐ近くで、どうしたことかエンジンの止まった車の始動スイッチを入れた瞬間に大爆発するという悲惨な事故にあいました。父親を失い、自らは大火傷を負い、体の主な機能がほとんど回復不能なことに病院で気づいた時、ダックスさんの発した言葉は 'Please let me die!' (お願いですから死なせてください) だったのです。
 後にこの事故は、近くのガスパイプラインからのガス漏れにエンジン始動の火花が引火したのが原因であることが判明しました。今月は、その事故から10年を経て昨年、直接私がこのダックスさんにお会いして、その当時の考えと現在の気持ちについて話し合ったことをもとにしながら、バイオエシックスの視座について論じてみたいと思います。

死なせてください!

 現在、米国でバイオエシックスを学んでいる人がだいたい必ず1度はみるカラービデオの題名が、実はこのダックスさんの主張をテーマにした 'Please let me die' なのです。入院後、約10ヵ月間治療をうけた1974年5月に、ダックスさん自身の願いと同意の下に、テキサス大学メディカルセンター精神科の医師によるインタビューと治療のドキュメンタリーとして、このビデオが製作されました。
 ビデオに登場するダックスさんは、非常に重傷の火傷のため全身がガーゼに覆われていて、その交換が水槽状のタンクに体全体をつり下げられたあとで行われるのです。猛烈な痛みと苦しみのありさまや、うめき声と叫び声が胸にひびいて伝わってきます。両目は潰れ、両手指が焼けついてしまって握りこぶし状に1つの塊となっていました。腕や足の骨はむき出して、更に顔は耳も口元も変形し、髪の毛もほとんどありません。次の場面で、病院のベッドの上からインタビューに答えてのダックスさんの声だけは力強く、ひびきわたって聞こえてきました。
 ダックスさんは言います。' 私は、何回も大きな声で訴えました。お願いですから死なせてくださいと。しかし全く無駄でした。あの痛さと苦しみの中で、私はただただ治療を止めてくださいと自分の判断と決断に基づいて、心の底から主張しました。しかし、私の明白な意図に反して治療が続けられました。全身の3分の2以上の皮膚に火傷を負った患者の治療例が欲しかったからなのではないかとすら思うのです。'
 このビデオで次の諸点が明らかとなります。第1に、医療チームはダックスさんの生命を救うために全力を尽くし、このケースは重傷火傷患者治療の成功例となったこと。第2に治療は、患者であるダックスさんの意思に反して行われたこと (痛みと苦しみを訴える患者は、それから逃れたいために、死んだほうがましだという表現をする場合があるし、医療の目的は可能な限りの生命の維持にあるので、患者の意思に反してでも延命・治療に尽くすのが当然とする発想と論理)。第3にダックスさん自身は、正常な判断力に基づいて自分の生命と体についての決断をなし得る主体であると主張していたこと。更に、治療の中止が死につながることを明確に認識していたこと、などの諸点です。

自己決定の視座

 医療行為には、いうまでもなく専門的な知識と判断とが求められますが、その場合、患者の同意が必要だというのが法的に確立されたバイオエシックスの重要な原理の1つです。治療行為をめぐっての最終的な判断の主体は、患者なのであって、その患者自身の人生観や倫理的決断や価値判断の上にたった処置が行われるべきなのです。
 このようなバイオエシックスにおける '自己決定' の視座を展開するにあたっての根拠はもちろん、'人間存在' についての理解にあります。1人1人の人間 (成人) は、正常な判断力を持った、かけがえのない法的・道徳的主体であって、'人格の尊厳' に基づき平等に扱われるべきだとするのです。
 この人格の尊厳において、患者は医療従事者と全く対等な立場に立っていますし、自らの体と病状についての正しい情報をその専門家としての医療従事者から入手し、理解し、確かめ、最終的な決断を下さねばなりません。したがって、患者と医療従事者との間には信頼関係がなければなりませんし、この情報やその内容の理解のプロセスで意図的に操作されないための自覚や学習が、患者の側にも必要となってきます。
 こういった場合に、医療従事者が、患者についての診断結果とそのデータを提供して患者に勝手に選択させ、決断させるというのであっては、専門家として失格です。医療従事者側は、数々の治療のオプションやその危険性、予後を示した上で、あくまでも専門家としての助言・勧告と自らの提言および判断を詳しく伝えることによって、患者と誠実にコミュニケートするべきことが、バイオエシックスの立場から求められているのです。つまり、医療における確立した原則としての '情報を十分に与えた上での同意' (Informed Consent) は、形式的な同意や単なる文書へのサインであってはなりませんし、専門の用語ではなく通常の一般人が理解できる言葉と内容で、医療従事者が患者とコミュニケートすべきだという判例が蓄積されてきているのです (拙稿:バイオエシックスと医療, 病院, 41 (1) 参照)。

恩恵の視座

 いうまでもなく、旧来の医療従事者の価値判断の基準は '生命の保存と維持' に基づいて成立していました。可能な限りの処置をほどこし延命させることが、本人・家族・社会にとって当然期待されているという前提があったのです。これは、'生命' が神秘的な自然現象として考えられていた時代の価値観としてはふさわしかったといえます。
 しかし、現代は '生命の質' が問題とされる時代ですし、また生命についての判断と決断を自らの生命の専門家であるべき自分自身、つまり患者がしなければならない時代となってきています。また技術的にも、生命に介入し、その始まりや終わりを操作することが可能となってしまいました。したがって、生命操作の結果についての責務や義務を担うのはいったいだれであるのかについての合意が、'公共の視座' から問われることになるのも当然のことです。
 未来への洞察力をもって、専門家のみならず一般の人々が、民主的な手続きによりバイオエシックスの '公共政策' をつくり出していかなくてはなりません。特に治療にあたっては、通常の処置でその限度まで力を尽くしたということで、いちおう納得できるのかどうか、あるいは、通常の処置の限度を超えての精神的・肉体的・経済的・医学的な対応が求められているのかどうか、といった点についても深刻な問題がでてきているのです ( この点に関しては拙稿:バイオエシックスを考える: 生命・医療・未来, 日本医事新報, No. 2964, 1981年2月14日号を参照 )。
 '恩恵の視座' から、このダックスさんのケースを検討してみると、積極的に、当然の行為として重傷火傷患者を助け、治療しなくてはならないという善意と義務を、その医療チームの献身的な努力の中に認めることができると思います。それはまた、医療の持つ社会的責任の遂行でもありました。
 ただし、明確にしなければならないのは、なんといっても '患者本人への恩恵' の視座です。特定の病気や疾患への興味や治療例が研究の業績作りや学会報告のため必要であるといった発想がうけ入れられてはならないのです。学問研究の進歩のためにとか、同じような病気のために苦しむほかの多くの人のためにとかいったことが '患者本人' の意思にかかわりなく表明され、同時に専門家の判断のみによる '患者本人のための恩恵' の享受が主張された時、しばしば患者の人間としての尊厳が無視され、正確な正しい情報が伝えられず、悲惨な人権障害が起こったという事実をも私たちは忘れてはならないのです。

公正の視座

 バイオエシックスの考え方を展開するにあたって、更に検討を要するのは、その '公正の視座' です。この場合、特定の個人の価値判断や道徳的・倫理的基準をふまえつつ、その個人の生活している社会における合意や、公共政策に関連しての '公正の視座' が問題となってきています。
 例えば、欧米諸国では既に臨床行為としての体外受精プログラムは、'公正の視座' から反省期に入っているのです。確かに、子どもの与えられない夫婦にとって、この新しい医療技術の適用により大きな恩恵が与えられる点については、ほとんどだれにも異論はありません。しかし、この臨床治療行為が、そのために費やされる人的・経済的・社会的な '公正の視座' からみてバランスを持つものであるかどうかについて冷静な検討が加えられつつあります。現在でも、米国では体外受精に直接関連する研究および臨床行為には連邦政府の基金 (税金) は使用されていません。また、このプログラムを特定の病院などのセンターに集中させる方向にあります。それは、あらゆる医療機関がどこでもこれを行えるシステムをとることには批判があるからですし、また実際にその必要も認められないからです。
 同じように、人工臓器の移植をめぐっても、'公正の視座' から検討すると、それが成功したかどうかよりも、今後将来にわたっての社会的な効果、特に、いったいこれによりだれが (年齢・性別・職業など) どのような基準によって恩恵を享受することになるのか、そのコストはだれが負担するのか、といったことが '公正の視座' から検討されなければならないのです。世界で最初に成功したクラークさんへの人工心臓の移植のケースをめぐっても、その議論の焦点は、技術的な成功もさることながら、その適用がどのようになされるべきかという '公正の視座' にあてられていました。その1つの重要な展開としては、今後むしろ人工臓器の移植や手術を最小限に抑えるための総合的な健康・保健プログラムやライフスタイルづくりを目的とした計画と実践がなされねばならないということが主張されました。
 このダックスさんのケースでは、その居住地域に、米国南部でのオイル事故対策の一環としての火傷治療研究センターが社会的ニードとして存在しており、そのプロジェクトに適合する形で、ダックスさんが患者となったという点に特色がありました。また、後にガス漏れを認めたパイプライン会社の損害賠償による経費の負担のあったことも、積極的な治療のための大きな要因ともなりました。
 このような研究・治療施設の存在、専門医療チームの努力とその研究の蓄積、更に患者の家族 (この場合はダックスさんの母親) の強い生命維持への願いといったことが総合的に機能し、患者本人の治療中止を求める意思の表明にもかかわらず、'公正への視座' にかなったと判断される形での治療が行われることになったわけでした。

表 バイオエシックスの視座
人間の共存と生への共感を可能にするコミュニティづくり←想像力
前提*(1)情報の共有 (2)決断の共有 (3)方策の共有
バイオエシックスに関連する状況<状況> バイオエシックスの視座からの義務<義務>
I. 個人としての主体性を脅かす可能性がある場合 ← '自己決定の権利' を尊重する義務
II. 人権・生命・身体などを侵害する可能性がある場合 ← 害 (悪) を「与えない」義務
III. 人権を守り生命・身体を救う可能性がある場合 ← 恩恵 (善) を「与える」義務
IV. 公正の基準からみて、著しいアンバランスの可能性がある場合 ← 公共政策形成の義務
V. 人権を侵害し、生命・身体・財産などに損害を与えた場合 ← 損害賠償の義務
*前提の(1),(2),(3)については、拙稿 "バイオエシックスと医療" (病院, 1982年5-7月号を参照)

生への共感

 上に述べてきた3つのバイオエシックスの視座を総合的に機能させるための機動力として、私は人間存在の共存的態様と、人間としてお互いが共感できうる基盤となるべき '想像力' をあげたいと思います。想像力によって生み出される、共感され得る生を可能とするコミュニティにおいては、1人1人の生や死や病気や苦しみや喜びのストーリーや体験を分かち合い、共有することによってお互いが豊かになるのです。想像力によってお互いの生を共感し、その相互依存性を確認し合うなかから、人間を真に人間として生かす多様なコミュニティ、例えば癒しの共同体としての病院や地域共同体、家族共同体 (家庭) の真の意味が明らかになってくるのだと思います。人間が、専門家と非専門家とを問わず、平等な関係に立ち、相互に持つ情報と決断と方策を共有することが、バイオエシックスの公共政策づくりとして極めて重要なこととなるのは、このような私たちの未来のあるべきコミュニティへの想像力が、私たちを駆り立てることになるからなのです。

10年後のダックスさん

 さて、以上ダックスさんの事例を手がかりにしつつ、バイオエシックスに特徴的な視座をめぐって検討してきましたが、
Mr. Dax Cowart
現在のダックスさん
photo by Larry Morris,
Copyright (C),
The Washington Post.
今の時点でのダックスさんの考えについて述べておきたいと思います。話し合いを通して、私自身が強く印象づけられたのは、実に堂々と力強く生き抜いているダックスさんの '自立心' の強さでした。
 空軍のパイロットとして沖縄の米軍基地に駐留したこともあるダックスさんは、スポーツマンとしてのトレーニング (陸上・ゴルフ・ロディオなど) があったせいか、全身からうける感じはエネルギッシュでした。高校時代のクラスメートと昨年結婚したとのことで、ご夫婦で一緒にお会いでき、お二人とも幸せそうでした。しかし、なんといっても目は失明し、耳もよく聞こえず、歩くのは不自由で奥さんがそばに付き添っておられました。にもかかわらず、元気な声で、話に熱が入ると火傷してくっついてしまった握りこぶしで机をたたくというくらいでした。現在はギフト・パッケージ・ビジネスを経営するかたわら大学法学部のコースに通い、地域の商工会議所の役員として活躍しているのです。
 義眼を入れ、耳も鼻も手術し、頭髪を植え、遠くからでは、これがあのビデオに登場したダックスさんかとは思えないくらいでした。ダックスさんは次のように語られました。'確かに、生きてこれて幸せです。結婚もでき、職も与えられ勉強もできるのはありがたいことです。しかし、今のこの幸せな現実にもかかわらず、10年たった今でも、あの時の自分の心の底からの願いは正しかったし、その願いが聞かれなかったことに深い悲しみと苦しみを覚えるのです' と。
 'あの時のあの願いが聞かれていたら、今の自分は存在していないことは事実です。にもかかわらず、いま私が幸せに生きているという現実が、あの時の決定を正当化することにはならないのです。いま私が同じ状況におかれたら、やはり私は同じように、"治療をしないでください" (Please let me die) と言うでしょう。あの治療のプロセスを2度と繰り返すつもりはありません。私の自己決定権が、あのとき拒否されたという事実は消えませんし、それを私は一生この身に負って生きていかなければならないのです' と続けました。
 そして最後に、次のように語ったダックスさんの言葉は、今も私の耳元に鳴り響いています。'私の治療のプロセスで、どんなにか多くの人々のお世話になったことでしょう。しかし、すべてのお医者さんや看護婦さんたちが私の支えとなったわけではありません。私にとって一番の支えとなったのは、私のベッドのかたわらに居て献身的に治療を尽くし、語り、なぐさめ、力強め、励まし、時に静かに黙って私と時間を共有し、私に共感してくれた看護婦さんたちだったのです。しばしば病院での定められた勤務時間を終えたあとまでも、私のそばに居続けてくださった看護婦さんたちの支えが、私を生かし続けてきたのです'
(つづく)


次号/
バイオエシックス・セミナー (3)「赤ちゃんの生と死をめぐって」に続きます。

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