■「看護学雑誌」, 48 (3), pp. 341-344., 医学書院, 1984. 3.


第3講. 赤ちゃんの生と死をめぐって Prof. Rihito Kimura wearing a smile
木村利人
 今まで述べてきたところから明らかなように、'バイオエシックス' は、伝統的な'医の倫理' とは、その発想や問題へのアプローチが異なります。
 今月のテーマである重度の遺伝欠陥や重症の奇形をもって生まれてきた赤ちゃんの生と死をめぐっての極めて困難な決断の問題も、従来から行われてきたように医療従事者の医療処置上の判断が優先し、多くの場合、当事者としての両親や家族に詳細な病状などや治療の選択のオプションについての情報が告げられないまま決定が行われてはならないとするのです。こういった場合、母親はもちろん父親・家族・親族、更に一般の社会の人たちによる社会的・経済的・倫理的・道徳的方向づけや、それらに基づいた '公共政策' の枠組みに照らして慎重に、医療の立場からの意思決定が行われなければならないとするのがバイオエシックスの基本の視座から出てくる考えなのです。

ジレンマの中で

 先月のダックスさんの場合とは異なって、自らの意思表示が不可能な赤ちゃんの生死にかかわるケースの場合、一体だれが基準を定め、どのような状況の場合にだれによって最終判断が下されることになるのでしょうか。特に医療処置の面からのみならず、<生>をどのように考えるかという価値判断や倫理的な立場の相違が大きく問題となってきます。それらはだいたい次のように3つの立場として把握できると思います。
 第1の立場は、どのように重症の遺伝的欠陥や奇形の合併症などがあっても、医療の立場から可能な限り全力を尽くして救命・延命・治療にあたるべきだとする考えです。ともかく赤ちゃんがこの世に生を受けた以上は '生きる権利' があり、積極的にはもちろんのこと消極的にも赤ちゃんの生きる権利を否定する行為は一切してはならないというわけです。
 例えば、1974年に米国メイン州で実際にあったケースですが、生まれたばかりの赤ちゃんの左半身に重度の奇形があり、手も耳も目もほとんど機能しておらず、そのうえ食道気管瘻のため口腔よりの食物摂取も不可能で脳障害、肺炎およびその他の内臓疾患もあり、早急な手術が必要とされたのでした。しかし、両親がこの赤ちゃんへの手術を拒否したので、医療チームが裁判所の判断を求め、結果的に手術は行ったのですが死亡してしまったのでした。その時の裁判所の見解は、'いかなる赤ちゃんも誕生の瞬間から完全に法の保護の下にあり、人間存在にとっての基本的な権利は<生命権>そのものにある' として緊急手術の遂行を正当化したのでした。
 第2の立場では、このような状況におかれた赤ちゃんにとっての '意味のある生' (meaningful life) に焦点を合わせつつ、かなり長期の展望をふまえて現在の決断をなそうとするものです。人間として意味ある生を送り得る可能性の程度、疾患が全快する見込みやその時期、現在の苦痛の度合い、その激しさとコントロールの状況、今後の生長のプロセスの評価、社会の受け入れ体勢、赤ちゃんの将来における自立の可能性、そのための法的・経済的・社会的保障などが専門家の助言をもとにしての慎重な考慮の要因となります。この立場の焦点はあくまで、この赤ちゃんの生の意味とその内容にあてられるのですが、その基準のとり方自体にも大きな幅があることも事実です。
 従来、ほとんど確実に死ぬことが明らかと思われる重症の奇形の赤ちゃんを死ぬにまかせることは、ある程度容認されてきたことであって、別に新しい問題として出てきているわけではないという見解も医療専門家によって述べられてはいますが、現在、相当重度の奇形の赤ちゃんの場合でも諸種の医療処置・手術などにより生命を維持させることが可能となったところに問題がより一層複雑化してきたといえるのだと思います。
 第3の立場は、このような場合に、明確に両親や家族に、最終的な意思決定をゆだねる立場で、法的にも患者の権利として認められている自己決定権を基にした、赤ちゃんの法定代理人の意思 (両親) を全面的に尊重する考え方です。家族関係 (既に多数の子どもを養育中であったり、またその中に疾患を持つ者がいたりするケース) や婚姻関係の危機を招くと予想される場合や、個人的・家族的・社会的な財政上の過度の経費の支出を余儀なくされかねない '通常の処置の範囲外' の延命のための処置を継続することは倫理的な義務とはなり得ないとする考えの立場なのです。
 この点で米国医師会 (AMA) は、明確にその政策を打ち出し、生物学的な死が確実に起り得ることが間近だと想定される場合、通常の手段によらない延命を停止することは、'患者本人または近親者 (immediate family) の決定' によるとしました。この場合に医師は、必要に応じ助言および判断をし、患者の家族の要請に答えるべきなのですが、あくまで最終決定権は患者または家族にあるとした点は極めて当然の帰結でありました (JAMA, 227 (1974), 728)。
 さて現実には、個々のケースの違いがあり、3つの立場とはいっても、はっきりと分けられるわけではありませんし、異なった視角からのアプローチも考えられます。赤ちゃんの生と死をめぐっての決断には様々な要因が機能するので、それらを列記することにも問題が残りますが、いちおうのように、生と死をめぐっての決断の要因を掲げておきます。

表 重症の疾患 (遺伝障害および奇形など) をもった新生児の生と死をめぐって
要因 生への決断 死への決断
前例 他の新生児と同じように治療のための処置を行うべき 死が確実で回復の見込みが全くない場合は治療の停止が許される
存在の質 生命は神聖であり、どのような手段をとっても延命・救命すべき 生命の質を本人の立場で考え、'意味ある生' が期待できない場合、延命・手術などの処置をしない
権威 宗教と哲学上の見地から、生命の維持それ自体に意義を認める 生を絶対化することなく、むしろその限界を受け入れ死を許容する
法律 いかなる場合も延命するのが医療従事者の法的義務 法の認める範囲内での本人の '自己決定権' の承認
公共
政策
1. 生命権の法による保護
2. 世論形成と規則の公布
  一般の人々 (Public) による公共政策決定過程への参加
3. 病院の方針としての生命尊重とその遵守 (各個の施設などでのガイドラインの形成)
左の各項をふまえつつ、バイオエシックス公共政策としてのガイドラインをつくる。
a. 延命の限界の容認
b. 尊厳死の制度化
c. 医療辞退 (自己決定権)

決断の共有

 米国医師会のガイドラインに示されているように、現在では余程の例外 (赤ちゃんの病状について、もし重症の場合は知りたくないという両親のケースもありうる) を除いて、両親または家族は、専門家としての担当医療従事者からの助言を十分に考慮した上で決断を下すわけです。また、それが両親の道徳的・法的責任なのであって、医療従事者側に判断を委ねるというのは自己決定権の放棄であるとみなされます。また医療従事者側が、患者または家族、この場合は母親またはその家族に赤ちゃんについての正確な情報を伝えない場合は、当事者の知る権利の侵害となりますから、仮に後に訴訟を起こされれば完全に負けることになります。
 このような状況におかれた赤ちゃんの病状や、緊急手術などの医療処置の是非などをいちいち両親に知らせるのは煩雑であるばかりか、無意味であり、更にかえって苛酷ですらあり得るし、心理的・心情的に当事者に決断を迫ることはしのびないとする見解もなかったわけではありません。しかし、誠実な信頼し合える人間関係の中にこそ医療従事者と患者との正しい関係が成立し得ることを前提とした場合、むしろ正直に告げることのほうが、特に生命をめぐっての決断に関する場合、あるべき当然の態度であるということになるのです。生命の主体としての人間の尊厳を重んじるということなしに医学研究や医療が行われるとき、密室の中で極めて悪質な生命操作と人権侵害が行われたことは、私たちにとって周知の事実でもあります。
 したがって、私たちがバイオエシックスの視座からこのような困難な問題に直面するとき、何より重要なことは、医療従事者と家族との間に正しい信頼関係が存在しているかどうかということです。非常に高度の専門的知識と経験を持った医療従事者の助言と判断とが、当事者の決断の根拠となり得る場合が多いわけですから、私はこのような決断のプロセスを '共有すること' に大きな意味を認めたいと思います。医療従事者側のみの判断や、また両親や近親者のみの判断という対立的な構図で把握するのでなく、むしろ '決断の共有' という形になるべきだとするのが私のとる立場です。

連邦政府の介入

 1982年4月に、大きくマス・メディアでとりあげられ、社会的に注目を集めたケースがインディアナ州で起こりました。赤ちゃんはダウン症で生まれ、更に内臓に欠陥があるので手術が必要とされたのですが、両親はそれを拒否し、医師側が裁判所に判断を求めている間に赤ちゃんは死亡してしまったのです。
 米国連邦政府厚生・福祉省 (H. H. S.) は、このような家族、医療従事者、裁判所などによって、遺伝的欠陥などを持って生まれた赤ちゃんの存在と福祉が、両親や家族の側の都合により否定されかねないことを理由に、昨1983年3月7日に規則を施行し、全米の連邦政府管轄下および補助金を得ている6400の病院内にある分娩室、妊産婦・小児科病棟、ナース・ステーションなどに大要、次のような警告の掲示をすることを義務づけました。
 すなわち、'障害をもって生まれた新生児に対して、栄養補給および看護を行わないという悪質な差別行為は、連邦法により禁止されている。医療従事者であるとなしとにかかわらず、上記のケースにあたると考えられる場合は、直ちに次の電話番号 [800-368-1019 (無料), 24時間通話] に連絡をすべきこと' という内容でした。
 もちろん、連邦政府によるこのような行政措置としての規則の施行 (1983年3月22日付) に対して、米国小児科学会、全米小児病院・関連施設協会などが厳重な抗議をし、行政当局の干渉を排除するため、この規則の無効を求めて訴訟を起こしました。1983年4月14日の判示でゲッセル判事は、この規則が独断的かつ恣意的であり、このうえ行政手続法に違反して公布されるに至ったので無効であるとし、原告側の勝訴としたのでした。そこで連邦政府側は、また改めて次の手を打つことになるわけです。つまり、ほとんど同じ内容のもの (新規則では背景説明の前文および関連付録がつけられ、掲示はナース・ステーションに限られることとした) を官報に再び公示して行政手続上の不備を補い、規則として施行するためHHS長官名で再提案したのです (1983年7月5日, 45 CFR Part 84, 1984年1月9日付)。

意思決定のシステム

 さて、このような連邦政府の規則による直接介入方式は、医療の現場に様々な反応を生み出しました。例えば医療従事者と患者との間の決断の共有へのプロセスを (プライバシーを尊重しつつ)、病院などの中でシステム化する方式も考えられることになります。また実際にこのような意思決定を諸種の委員会が行っているケースもあったからです。
 その1つは病院や研究機関内での臨床医学研究のうち連邦政府の補助金を受けている研究については、必ず倫理審査委員会 (IRB) の審査を受けることを法的に義務づけている例です。また、このIRBをモデルにしつつ、各病院独自に病院倫理委員会 (HEC) を設置し病院に常勤の聖職者 (神父・牧師など) をその委員に加えたり、また地域の代表を加えたりしているケースもあります。
 生と死に関する問題は純粋に医療の技術上の問題であるのではなく、むしろ患者や家族や医療従事者の価値観や道徳・倫理、世界観とかかわりを持つ以上、このような委員会がその当事者をも含め第三者も加えて構成され、その病院などにそれぞれ独自な (例えば宗教上の信条に基づいての方針など) バイオエシックス・ガイドラインを持つことが望ましいと考えられます。
 米国大統領バイオエシックス委員会 (President's Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research, 略称 President's Bioethics Commission) も、今後の方向としてHECの設置を提言しているのは注目されます。既に現在、キリスト教系の病院・施設などの約40%にこのような委員会が形成されており、バイオエシックスの視座からのガイドラインがコンセンサスとして存在しています。
 連邦政府の直接介入は、個々のケースによって非常に異なる複雑な問題を、医療の現場の中の当事者を中心に、1つのシステムの中で解決しようとする方向に対しての挑戦だととらえられることになってしまいました。実際に医療従事者としてこういった問題に直面し、経験を積み重ねた専門家の見解をほとんど無視し、国民一般による世論形成を反映する機会もなかったことも問題としてあげられます。
 ただ、障害者であるがゆえに、生命の尊厳がおびやかされるといった差別的処置を受けることがあってはならないという連邦政府側の主張に一理あることはいうまでもありません。両親の親権といえども絶対的ではあり得ないからです。特に両親の自己中心的な理由により、赤ちゃんの生命と利益が危機にさらされてはならないとする米国の人工妊娠中絶反対グループである 'Right to Life' の人たちによるレーガン政権下での政治運動の成果として、このHHSの規則が作られるに至ったという事情があることもまた事実です。
 これはバイオエシックスの展開が極めて政治的な戦略に利用されることもあり得る1つの具体例となりました。1人の赤ちゃんの生と死をめぐっての問題も、個人的な関係者の決断の枠を越えて非常に幅広い複雑な状況の中で、赤ちゃん自身の利益と人権に焦点を合わせて、考えられるべきではあります。しかし、あくまでもこういったバイオエシックスの公共政策の形成にあたっては、一般の国民 (Public) がその意見を反映できる民主的な手続がとられなければなりませんし、特定のグループの見解が公共政策として形成されてはならないのです。
 公共政策の形成の主体とその受益者が国民であり、その支持と負担 (税金など) によるという点は、特に明確にする必要があります。そうでないと '公共政策' や '公共の福祉'、更には弱者の '人権の擁護' の名の下に全く上からの発想での一方的な官僚のアイデアによる、官僚に都合のよい行政指導が行われてしまうことになります。これらの政策はしばしば特定の利益団体、政党のイデオロギーや企業・学界などの利益と結びついたり、国民と共有されるべき情報を非公開にしてきました。

バイオエシックス公共政策

 私が米国議会の3人の立法専門委員に直接お会いし、このようなHHS規則の背景をめぐって討議をかわすことができたのは昨1983年の6月のことでした。ちょうどHHS規則の無効が判示されたあとで、7月の規則の再提案を前に、議会としてもこの件をめぐって立場を明確にするべきとの考えから、新しい法案の提出が準備され、その立案をしたのが、私のお会いした委員の方々だったのです。
 この立法案 (米国上院, 1983年4月7日, S. 1003, 98th Congress, 1st Session) は、その第2部で重症の疾患にかかっている新生児の保護を定め、特別諮問委員会の設置を提案しています。この委員会の任務は全般的な調査と勧告書の作成にあり、構成員は15名とされ、(1) HHS職員2名、(2) 重症疾患新生児に関する政策決定過程にかかわる専門分野、例えば医の倫理や法学の分野などの市民代表5名、(3) 全米の病院・医学・看護などの組織体からの指名による3名 (うち1名は医師とする)、(4) 全米の身障者組織、またはその両親の組織あるいは重症疾患新生児の看護または治療にかかわりを持つ者などを全般的に代表すべき者5名、となっています。
 この例で明らかなようにバイオエシックスに関する公共政策づくりには、医療従事者のみならず種々の分野の専門家および特定のテーマに深い関心を持つ非専門家の参加が必要不可欠なのです。
 私の構想するバイオエシックスの基本には、このような開かれた形での意思決定過程への参加を当然のこととするメカニズムがあるのです。医療機関の現場において直接ここに述べたような赤ちゃんたちと接している医師や看護婦たちの専門知識と体験とが、公開の討議の中でバイオエシックスのガイドラインづくりのために大いに反映されるべきであることはいうまでもありません。
(つづく)


次号/
バイオエシックス・セミナー (4)「<自然な生>の終わり」に続きます。

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