■「看護学雑誌」, 48 (5), pp. 581-584., 医学書院, 1984. 5.


第5講. 共に生きる試み Prof. Rihito Kimura wearing a smile
木村利人
 前回までの3回は、主として生命の終わりの問題をめぐって、バイオエシックスの視座から考えてきました。今回からは3回にわたって、私たちの生命の<質>をめぐってのバイオエシックスの事例を考えてみたいと思います。
 バイオエシックスの 'バイオ' はギリシア語の 'ビオス' に由来し、生命・生活・生涯・生という意味が含まれています。この 'ビオス' をめぐっての考え方の枠組みや基準を、ギリシア語の 'エティコス' という、元来の意味 - 習慣・習俗 ( '倫理' より幅広い) にさかのぼってライフスタイルや私たちの生きていく上での共通理解のもととなる '公共政策' としてもとらえていこうというのがバイオエシックスなのです。このことについては既にふれたとおりですが、当然、生命の初めから終わりまでの '生命や生活の質' をめぐっての様々な問題がバイオエシックスにとっての大きな研究テーマになるのはいうまでもありません。

人生の実験

 今回取り上げたいのは、身体に様々な困難を持っている人たちが共に生きようとする可能性の試みです。私たちの生は、ある意味で毎日毎日が試行錯誤の連続であり、繰り返しのできない生活の日々です。毎日の生を自ら選び、自らの決断において送っているわけです。
 私が個人的にいろいろ教えを受けた弁護士の故・正木ひろしさんは、<神の存在>を仮定すればこそ、この厳しく、繰り返せない真剣勝負の '人生実験' が毎日喜びになるのだと、私に語ってくれたことがありました。米国の詩人エマーソンに大きな影響を受け、神を信じていた正木ひろしさんの生涯をかけての人権擁護のための闘いは、"首なし事件" "八海事件" "丸正事件" など冤罪のため苦しんでいた弱者のため捧げられ、今もこれらの記録を読む者の胸に響いてくるのです。
 我が国における人権と正義に焦点を合わせようとするバイオエシックスの担い手にとって、正木さんによるこれらの本は、必読文献だと思います。不正義という名の悪魔に対する人権の闘いの感覚をみがくために、私自身は繰り返し正木さんの著作を読み続けています ["正木ひろし著作集" (三省堂), "近きより", 1-5 (旺文社), 家永三郎著 "正木ひろし" (三省堂選書) など]。
 さて、身体の機能に困難を持たない者にとっても毎日が "実験の生" ですが、特に身体の機能に困難を持つ人々が日々をどんなにか厳しい状態の中で生きているのかに、私は深く教えられます。2月号で紹介したダックスさんも、片方の靴下を履くのに最低5分かかるということでした。それを、奥さんに助けてもらわずに自分で必ずやり遂げるということで、その自立心と強い意志には頭が下がります。
 去年の9月、私たちの研究所でのファカルティ・セミナーに講師として参加され、自らの具体的な経験を語るために来られたW氏たちのグループは、身体に困難を持った人々が新しい可能性を探求し、共に生きていくための試みを実践していました。
 いろいろな身体上の機能の障害は、もちろん人によって異なります。そして、その障害の機能や程度の異なった人々が1つのチームを作り、共に生きるのでは、かえって困難が倍加されてしまうのではないかと考えがちです。しかし、このW氏たちはそのような旧来の発想を全く変えて、新しい生き方を探る可能性を見いだしていこうとしているのです。
 この人生を他者と共に助け合って生きるという新しい可能性の探求は、私が構想しているバイオエシックスの根底にある考え方ともいえる '分かち合う生き方' '平等の正義'、そして何回か指摘してきた '自己決定の法則' '恩恵享受・授与の原理' に合致していると思うのです。しかし、この試みが今後どのように展開されていくかは、まだ未知の段階にあります。次に、その内容をこの時の話し合いをもとに具体的に説明してみましょう。

共生の可能性

 このW氏たちのプロジェクトはメリーランド・リハビリテーション・センター活動計画の一環として展開されつつあります。その具体的な考え方の基本は、身体の四肢に困難があって、全く車椅子に頼っての生活しかできない人々 (その症状の度合いは人によって異なります) と、身体が全く健全で四肢の活動に困難を覚えないが、知能指数が平常以下の人々とを組み合わせようというものです。
 つまり、知能的には問題のない四肢麻痺者 (Quadriplegia, 以後 'Q' と略称) と、日常的な思考や知的判断のレベルが必ずしも一般の人と同程度ではないが、身体的に健全な人 (Mentally Retarded Citizen, 以後 'MRC' と略称) とが自発的にペアを作り合い、共同生活を営み、日常生活に困難を覚えている者同士が互いに助け合いつつ生きていこうとする試みなのです。
 この試みが成功するためには、慎重な準備と、よく考えぬかれた長期のスケールでの計画性が求められることはいうまでもありません。しかも、これは現在のところ、あくまでも自らの選択による1つの '可能' なのです。かなり成功したペアもありますが、その反面で両者の組み合わせがうまくいかず、失敗した例もあるということでした。
 この試みはコミュニティ (地域社会) のサポートがあってこそ可能だという側面があります。共に生活する場、2人の人たちがそれぞれ働きに出掛けていくための交通の便宜を図るなどのサポートもコミュニティの人々の助力により可能となっています。
 現在、このプログラムの目的は、むしろ将来のためのこのようなプログラムのオルガナイザーの養成にあります。こういったアイディアに共感し、このプログラムに参加し、特定のペアで生活すること自体が研修であり、それへの参加者に対し、ある程度の財政的サポートをするシステムをとっています。
 1つの大きな問題は、このペアの人たちがそれぞれ働きに出る場を持ち、収入額が一定限度を超える場合には、身障者として数々の福祉給付が受けられなくなる可能性があるということで、この点は今後、法的な調整が求められているとのことでした。
 さて、このプログラムを推進しているリーダーの1人であるW氏自身、四肢が全く機能せず、車椅子に頼っての26年間の生活を続けてきており、現在はリハビリテーション・センターの教育プログラム担当部長をしています。
 それ以前には、メリーランド州州立刑務所の教育カウンセラーとして2年半勤務していたとのことでした。'弱さのシンボル' としての車椅子に乗った教育カウンセラーのW氏は、刑務所の囚人たちによって守られ、通常の人々にとってすら厳しい仕事をやり抜いたとのことでした。囚人たちにとって、W氏はその献身的な任務遂行のために、むしろ '強い精神' のシンボルとなったようでした。
 MRCの人の場合も、企業や銀行などで郵便物の部内配布係、小切手の検査などの仕事をしたり、また看護婦の介助担当者となったりして、家族とコミュニティによって支えられ、その中で生き生きと生活することが当然というシステムが現在の方向となりつつあります。
 こういったことから、ここに取り上げた組み合わせの共生を検討するパイロット・プロジェクトが形成されてきているのです。食事の支度、買い物、洗面などの分担や、1週間の日程をつくり、生活のプランを考え、収支などの家計を整えることなど、ペアのそれぞれの分担を合理的に決めた上で、私的なことには干渉しないライフスタイルをつくり出そうとしているのです。
 このようにしてお互いが助け合うことによって、おそらくは全く違った新しい世界が開けることになるのではないでしょうか。そして、実際に現在、そのような生活の試みが推進されているのです。
 ところで、このような組み合わせのあり方については批判や非難も存在しないわけではありません。例えば、MRCの人がQの人たちによって心理的に圧迫されることになりかねないということや、常に生活を共にしなければならないという不便さや、言語表現による誤解などもあったとのことでした。また、それぞれ固有の身体上・精神上・知能上の問題や、その程度の異なった個人を組み合わせるのは基本的に賛成できないとする考えも根強く存在しているわけです。
 この試みを計画・推進してきているメリーランド大学病院のプログラムには、現在24組のペアが参加していますが、現在まで必ずしも考えていたようにうまく機能しなかった例も出てきているとのことでした。
 しかし、身体の機能に困難を覚えている人やMRCの人々が、お互い同士話し合った上で、このような組み合わせに自発的に加わることに同意した人に対して、積極的なサポートをしているのです。したがって、組み合わせは一方的にすることはありませんし、事前調査と適応力の調査を慎重に面接などによりなし終えたあとで最終決定をしているわけです。このような人々の生活の質の向上を考える可能性を求めての大胆な発想に、私自身は深い感銘を受け大いに教えられました。
 とかく私たちは1つの試みを企てる以前から、それに対し、いろいろな批判や欠点の指摘をすることが多いと思われますが、ここに述べたような '生の試み' と、ともかく取り組んでみるという実践的な発想は、実生活の面でどのように生きていったらよいかを考えているいろいろな立場の人々に大きな希望を抱かせるのではないでしょうか。だからこそ、このような試みに対し、コミュニティも大学も財団も積極的に援助を惜しまないわけです。

計画の内容

 このプログラムは略して "PLAMRPQ" (Paired Living Arrangement for the Mentally Retarded and Persons with Quadriplegia) と呼ばれています。
 現在、米国には約2万5000人のQの人たちがおり、毎年約1600人ずつ増加していっています。
 一方、このプログラムに参加するMRCの人たちの場合は、ある程度、自分でなんでもできる人々で、むしろ施設の中にいるよりはコミュニティの中で自分たちの住居に暮らしたほうがいいと思われる人たちなのです。MRCの場合、例えばリハビリテーション・センターでは、看護婦の助手として患者の看護に当たるプログラムを持っています。
 そのほかにも、一定の方式に沿ったトレーニングにより、ノース・ダコタ州のセンターでも教育や体育の専門家としてMRCの人たちが育ちつつあります。メリーランド州では、既に12年にわたってこのようなQの人たちの介護人としてMRCの人たちが仕事をしてきたという実績があり、このような実験的な組み合わせのアイディアが出てきた理由もここにあります。
 次に、ペアになるに当たっての教育内容を具体的にみてみましょう。

 [MRCへの教育の内容]
 1) 食事作り
 2) 食べさせ方
 3) 電話の応答、玄関ベルへの応答
 4) 車椅子からの乗り降り
 5) 洗濯・着替えの手伝い、等々
 なお、この状況でQによる過度の干渉や要求を避けるため、非常識的な要求の内容の理解と、自分自身の必要性の理解のための教育がなされています。

 [Qへの教育の内容]
 1) MRCの人たちについての理解と他者への配慮の教育、事例研究など
 2) セルフケアについて教える

 そのほか両者に共通することとして、
 1) 休日・週末を他者と過ごす方法
 2) MRCとQの家族をこのプログラムに入れ、家族ぐるみのケアの意味を考え、互いに家族同士も支え合うプログラムにすること

 このようなプログラムは、専門家のガイダンスが必要となることはいうまでもありません。ソーシャルワーカー、看護婦、教育専門家、精神分析の専門家や評価研究の専門家などのチームが、このプログラムを支えていくことになるのです。
 また、独立した一組のペアというより、グループとしての共生を考えることも試みとしては可能でしょう。ともかく、いろいろな困難を持つ人々同士が助け合うプランを推進できるように、これらの人々と共に、これらの人々のためのプランをこのような専門家たちが考えていかねばならないのです。
 今、このプログラムは、明るい未来への共生の展望を持って大胆な試みの中で展開を続けているのです。本当にこのようなアイディアと '生と試み' がこの人たちのためになるのかどうかという評価は、今のところ明確に下されてはいません。しかし、少なくとも私たちのケネディ研究所でのファカルティ・セミナーで、このプログラムの立案者・参加者との話し合いの中に、私は未来への明るい光を見いだした思いがしました。
 この1つの試みの働きをに示しておきます。

図 MRCとQのペアへのプロセス

 このような組み合わせのアイディア自体は、実は必ずしも新しいものではなく、いろいろな人たちによってごく限られた範囲内ではありましたが、20年近くも試みられてきました。MRCやQの人々が施設の中に閉じ込められず、コミュニティに生きることがどうしたら可能になるかという苦しい試行錯誤の中から生まれ、育ちつつある考えであったのです。
 メリーランド州ボルティモアには、'身体の困難を持つ人たちのための住宅を確保するための市民グループ' があり、その人たちのための個人あるいは共同住宅政策活動が活発に行われています。
 その会長であるJさんは、車椅子で生活しており、メリーランド・リハビリテーションセンターの図書館長でもあります。今は、公立のアパートなどに一定数の障害者が自立して入居できるよう居住区画を決める仕事を受け持っています (メリーランド州, リハビリテーション法, 1978年修正, 第7章B項)。
 このような新しいプログラムをサポートするために、民間の組織も全面的にサポートし、市立アパート建築宿舎などに1組のペアのグループのための特別の区画をとるのを全面的に支援しています。アイディアやプログラムがどんなに良くても、事実上の規則や組織、また公共機関住宅局などのサポート、つまり強力な一般市民のサポートがないと、このようなプランは成功するはずもありません。
 私たちは、いったいどのような未来の展望をもって新しい社会をつくりだしていこうとしているのでしょうか。いろいろな性格、才能、身体の困難の度合が異なった人々が、お互いの力を分かち合い、助け合っていける社会をつくるための大胆な試みをしていかねばならない時に来ています。
 どのように身体に困難があろうとも、可能な限り1人1人の人間が自立し、自活して日々を送れるような共生の未来を私はイメージして思い浮かべています。小さな事柄であっても、そのようなお互いに共生を可能にする方向に、私たちは向かっていきたいものです。
 バイオエシックスの視座は、このような可能性を私たちが実現していくための大きな支えとなる1つの運動として展開されているのです。
(つづく)


次号/
バイオエシックス・セミナー (6)「バイオエシックス委員会」に続きます。

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