第7講. 患者はパートナー
表 患者の権利宣言・章典 (1984年, 木村試案) |
前文 患者が人として尊ばれること (人種、性、年齢、病気のタイプ、医療費支払いの財源などにより差別を受けぬこと)、医療が患者と医師など、病院スタッフとのパートナーとしての共同の協力行為の上に成り立つことを明確にし、'患者の権利擁護官の役割' について述べる。 1. 人たるにふさわしい医療と看護を受ける権利 2. プライバシーの権利 (私的なことを干渉されない) および秘密を守られる権利 3. 診断・処置・治療・予後などの内容と結果につき正確な情報を知る権利およびそれらに関して平易な言葉で説明を受けられる権利 (癌を含め真実を知る権利) 4. 医療処置の行われる前に、その内容とオプションにつき十分な説明を受け、あらかじめ同意・決定する権利、特に研究・実験の対象となる場合、ほかの方法や副作用についても知らされる権利 (同意権と決定権)、臨床実験の被実験者をいつでもやめられる権利 5. 病院内スタッフの個人名を知る権利 6. 診察・治療以外の目的 (例えば医学生の教育のためなど) で利用されない権利 7. 処方箋に書かれたあらゆる内容を知る権利、退院時および退院後、そのコピーを入手できる権利. それらを他者によりほかの目的のために使用されない権利 |
8. 法の定めに違反しない範囲内で自己の責任において医療処置を拒否する権利、その結果引き起こされる事態について知らされる権利 9. 法の定めに違反しない範囲内で自己の責任において退院する権利 (この場合、医師の勧告に反して行動したこと、および病院・医師は一切の責任を負わない旨の書類にサインする) 10. 正当な医学上の理由によらず治療行為を打ち切られない権利 11. 訪問者を受け入れ、電話で外部と連絡する権利 12. '患者の権利擁護官' と連絡する権利 13. 医療費の内容の明細書を入手する権利、支払い人が第三者である場合、そのコピーを入手できる権利 14. 複数の医療・看護の専門家およびその他の分野の人々 (例えば宗教、法律、バイオエシックス、コミュニティの代表など) から構成される病院倫理委員会 (HEC) などに参考意見を求める権利 15. 患者本人が同意権・決定権を行使できない場合は正当な決定代理人がそれらを行使する権利 16. 必要に応じ、ほかの医療機関などに紹介され、転院することのできる権利 17. 入院医療施設の規則を知る権利 |
医師や看護婦などによる医療や看護についての知識・技術・経験と専門的な判断の内容については、もちろん患者は非専門家であり特定の判断を下すことは極めて困難であることが多いと考えられます。
しかし、患者自身の価値基準や人生観を尊重することなく、一方的に医療従事者側の価値基準を患者にあてはめてはならないとするのが、バイオエシックスの考え方なのです。
そこで今回は、患者がパートナーであることに焦点をあてつつ、医療・保健における消費者としての私たちのあり方と、消費者の一員としての<患者>の権利の尊重について考えてみたいと思います。
なぜなら入院と治療の過程で、極めて弱い立場におかれた患者の '生命と生活の質' が、しばしば残酷なほどに無視され (あるいは否定され)、ひたすら病気の治癒を至上目的とした大義名分の下に、数々の人権侵害が行われてきている事実があまりにも多いからなのです。
医療と看護にとって本質的に重要なことは、医療従事者と患者との間のパートナーとしての人間的信頼関係であり、双方の人権と人格の尊重ということなのです。
パートナーの態度 |
パートナーは、お互いに相手を必要としています。相手がいなければ成り立たないのが、医療・保健・福祉です。後述するように、私たち国民の1人1人は、医療や保健や福祉のために税金を負担し、金を消費している<消費者>です。この意味で、医療の消費者あっての医療の提供者なのであり、また逆に提供者あっての消費者でもありますから、相互にパートナーであるといえるのです。
しかし従来、医療従事者は、患者がこのようなパートナーになることを望んでこなかった面がありました。特に我が国のような、どちらかというと権威と秩序を重んじる価値観を受け入れてきた社会での医療従事者と患者との関係では、上から下への一方的な父権主義の態度が受け入れられてきました。
現在でも、いちいち医師に質問したり、医療処置の確認を求める患者を好まない風潮が残っていますし、患者の側にも依頼心が強く、医師に判断をまかせる態度のあることも指摘されてきました。
しかし、このように医療従事者に 'おまかせ' し、すべてを 'ゆだねる' といった人間関係の中からは、自ら患者として情報を十分に受け、共に治療や看護に参加するといった積極的なパートナーとしての態度は出てきません。一方、癌などの場合も、患者にとって最も重要な診断結果を医療従事者が正しく告げないのでは、患者の<知る権利>の、ひいては<生命権>の侵害になるのです。
真実を告げるか告げないかは、医師が<患者の利益>を考慮して自由に決めるといった態度はもはや成り立たないのです。それぞれの国の歴史・文化・倫理の差をある程度は認めるにしても、基本的に<患者の知る権利>を侵害しないという患者の人権尊重への方向は明確に受け入れられねばなりません。
私が繰り返し述べてきたように、バイオエシックスの基本の考え方は、特に弱者、病者、被差別者、女性、幼児などの人権の保障のための着実な運動の中から生まれてきました。先進国や開発途上国を問わず、世界の同時代史を生きる人類の共同の課題を<正義の実現>と<人権の尊重>として把握する以上は、多様な文化と歴史の差を超えた人権ガイドラインを順守することが、国際的なルールとして求められているのです [ 国連・世界人権宣言 (1948年), ニュールンベルク綱領 (1946年), ヘルシンキ宣言 (1964年) などを参照]。
既にフランスでは、1793年のフランス革命国民議会で患者の権利の主張がなされ、'1人の患者に1つのベッドを' とか 'ベッドの間を3フィート以上あけること' とかの要望が記録に残っています。
我が国では、患者や被験者の人権保障についてもちろん色々な形での見解の表明がなされてきましたが、最も明確な形で提案されたものとしては '和田心臓移植事件' を批判・告発する形で出された1970年の '病者の権利宣言' ("和田心臓移植を告発する - 医学の進歩と病者の人権", 保健同人社, 1970年) および日本精神神経学会の '台氏批判問題' 委員会 (仮称) による1973年2月24日の '人体実験の原則' (提案) がありました (精神神経学会雑誌, 75巻11号, 1973)。
パートナーの過程 |
次に、パートナーであることの過程を分析してみたいと思います。第1に、患者のパートナーとしての医療従事者は、権威を持った万能の癒し人であるとのイメージを極力さけねばならないと考えられます。患者に不利な情報を含めて、診断結果と治療計画・予後などについての<真実>の共有が、両者ともに信頼し合える人間関係を保ち続ける上で、極めて重要なことなのです。
もちろん、情報を知りたくない人には、あえて知らせる必要もありませんし、その内容の告げ方にしても、タイミングやふさわしい場面が存在することはいうまでもありません。
また、人によりそれらの受け止め方も異なるでしょうが、パートナー同士が悲しみや苦しみ、喜びや希望を共感し合うことが重要です。
第2に、このような<真実の共有>へのパートナー同士の積極的な努力が必要です。どちらの側からであっても、一方的なコミュニケーションはさけねばなりません。医療従事者側は十分に納得いくまで平易な言葉で、診断の結果と医療の内容を患者に説明する義務を負い、患者は積極的に質問し、理解し、決断し、治療・看護の行為に協力・参加する責任を持っているのです。
第3に、このような過程の中で、医療従事者と患者とが真のパートナーとして協力し合い、やがて<癒しの原理>を共有体験するところまでに至ることが、望ましいと考えられます。極めて非人間化し、技術化・機械化した巨大な病院などの医療システムのあわただしい環境の中での、なんらかの意味の<精神性>の回復あるいは再発見の過程を分かち合うようになれるための様々の試みが今、世界の各地の病院で行われています。
ここで、私の患者としてのささやかな体験にふれてみましょう。私が1972年から3年間スイスに居住 (ジュネーブ近郊のセリーニ村) していたとき、持病の腎臓結石の疑いで入院したニヨンの州立 (カントン) 病院で一番最初に私のベッドの枕元に来られたのがカトリックの神父さん、それからプロテスタントの牧師さん、つづいて看護婦さんとお医者さんでした。
公立の病院においても、このような '癒しの共同体' における精神的な安らぎと、'癒しの原理' の根源にあるものへの大きな配慮がなされている事実に感銘を受けました。
もちろん歴史的事情や文化的背景の相違はありますが、私たちの国の医療や看護は、あまりにも<病気>それ自身への取り組みに精力を集中し、技術・機械、あるいは薬剤偏重に陥り、<患者>はそれらが適用される<対象物>となってしまっているのではないでしょうか。
その後、私はアメリカに来て再発した腎臓結石のため、ハーバード大学と連携しているマウント・オーバーン病院の中に開業している専門医 (泌尿器科) を訪れました。これは大学の診療所からの紹介によります。
懇切丁寧にX線の写真や尿の検査の結果を私に示しながら、医師は '手術をするのもしないのも、どうぞ自分で決めてください。私の手術では困るということでしたら、ほかの医師を紹介しますし、そこで更に診断を受けてもいいでしょう' と、患者の私が決められるように納得のいくまで詳しく説明をしてくれました。更に、もちろん医師自身の '手術したほうがよい' という意見を付け加えてくれます。医師との出会いは、パートナーとしての出会いなのです。
結石摘出の手術は、このマウント・オーバーン病院の手術室で、病院のスタッフの協力の下になされました。この泌尿器クリニックの専門医は、いわば手術室とスタッフを借りて手術を行い、現在の状況と退院日までの経過と予定を必ず告げ、質問にも十分答えてくれました。
看護のプロセスで日本での入院・手術の時との最も大きな差は、手術の翌日から歩くように指導され、実際に歩いたことと、痛い時はいつでも痛み止めの注射をするので我慢しないようにと言われたことでした。
日本では、術後はなるべく安静にし、ベッドから下りないようすすめられ、また時間がくるまでは、どのように痛んでも痛み止めをしてくれなかったことを覚えています。
しかしアメリカの入院体験では、医療従事者が患者を中心にしつつ完全なパートナーとして患者の自立への援助をするという医療と看護のあり方を、私自身としては非常に強く感じさせられたのでした。
医療消費者の権利 |
この病院に入院する手続きをするにあたっては、色々な情報の入った院長よりのメッセージが印刷してあるサイン入りの袋が渡されました。そしてこれを詳しく読むようにと言われました。その袋の中には、例えば 'この病院内であなたにふさわしいお医者さんを選ぶには' とか '訪問ボランティア・サービス'、TV (有線、無料で各病室で見られる患者教育プログラム案内) サービス、病院内の移動図書サービス、図書室・郵便・電話・売店・新聞・礼拝のことなどの説明をした印刷物などが、それぞれカラーの美しいパンフレットの形で入っています。
その中で、いちばん私の関心をひいたのは、患者と病院スタッフの協力を目標にしての '患者の権利と義務' についてのパンフレットでした。これは患者の権利を定めた1979年のマサチューセッツ州法第214章に基づいて作成された、この病院独自の文書でした。この入院生活中、私はテレビを見るよりもラジオを聴いていたほうが多かったのですが、午後の6時のボストン地方局 (民間放送) のニュースのあとに次のような会話が流れてきたのを、今でもよく覚えています。
それは最初、ラジオ屋さんにラジオの修理を頼みに行っている場面のようでしたが、お客さんが 'このラジオのどこが悪いのですか' 'いつまでに直りますか' と質問して、ラジオ屋さんがいちいち全部はっきり答えます。出来上がり予定日にラジオをとりに行って、お客さんがお金を払って、ラジオ屋さんが 'ありがとうございます' とお礼を言います。
場面が変わって、それに引き続き、今度は、お医者さんと患者との会話になります。患者さんがお医者さんに '私のどこが悪いのですか' 'いつまでに治りますか' 'いくらかかりますか' と聞いても、'忙しい' とか '私に任せておきなさい' とか、あいまいな返事をしてばかりいるのです。
請求書は来るので患者は支払いをし、お礼は患者が医師に述べています。そこで音楽が入り、アナウンサーがこう言います。
'皆さん、お医者さんがこのようにあなたの病名を言わないとき、あなたの問いかけにはっきり答えないときには、ボストン消費者センターの次の電話番号にすぐ電話をして下さい'
そこで、これは消費者センターの教育コマーシャルだと気がついたのでした。
医療のことを 'メディカル・サービス' と英語で表現します。お金を支払って、そのサービスを手に入れる側は、その内容についても当然発言できるという発想で、そのサービス提供者と消費者との関係がとらえられているのです。この場合、医療や保健・福祉の消費者とは、患者やその家族・当事者たちだけでなく、前に少しふれたように私たち国民の1人1人なのです。
医療だけではなく、国公立・私立の医療・医学教育機関や研究計画・施設・スタッフのためにも、その財政の一部を負担している以上、私たちは消費者としてのかかわりを持っています。
したがって、医療や保険の未来におけるあり方をめぐっての国の総合的な政策とその方向づけは、医学専門家集団や医療従事者とその政策の専門家、更に国政担当者・官僚などの手中にあるのではなく、私たち医療・保健・福祉のために税金を負担している消費者の手にあることを正しく理解し、明確にする必要があります。
医療従事者と患者との間のパートナーとしてのあり方も、旧来の医の倫理の枠組みの中での<私的>なあり方から、現代の消費者社会の状況をふまえた<公的>なあり方へと変化してしまいました。だからこそ、国や地方自治体が<患者の権利>の立法化を推進せざるを得ないところにまできているのです。
我が国においても、超学際的なバイオエシックスの視座から、医療・保健における消費者としての私たち1人1人と医療におけるパートナーとしての患者の位置づけを正しくふまえた上での<患者の権利章典>の立法化と、各個病院における<患者の権利擁護官>の設置義務化とが促進され、実現されねばならないと思います。
なお<患者の権利>および<患者の権利擁護官>については、ぜひ次の資料を参照してください。
1) 木村利人:バイオエシックスと病院の機能 '患者とともに' の医療の新展開, 病院, 40 (1), 1981.
2) セント・エリザベス病院 '患者の権利と責任' (木村利人・岡村昭彦共訳), 看護教育, 24 (4), 235.
(つづく)