■「看護学雑誌」, 48 (8), pp. 941-944., 医学書院, 1984. 8.


第8講. 体外受精と代理母 Prof. Rihito Kimura wearing a smile
木村利人
 今月から、3回にわたって '生命のはじまり' に関連するバイオエシックスの問題を取り上げます。
 まず今回は、体外受精と代理母の問題を手がかりにしてバイオエシックスのプロセスを検討し、更に '人権ガイドライン' についても考えてみたいと思います。なぜなら、生物・医科学研究の先端技術を応用しての臨床治験行為には、ある程度、人体実験的な要素が含まれるからです。
 したがって、今まで述べてきたように、社会一般の人々によるバイオエシックスの視座からの検証と合意が必要とされるのです。

体外受精のパイオニア

 イギリスのエドワーズ博士 (Dr. R. G. Edwards) が世界で最初の体外受精児誕生を成功させたのは1978年7月のことでした。
 これに先立つ5年前の1973年6月に、スイスのチューリッヒで '遺伝学と生命の質' に関する国際会議が開催されました。アジア・アフリカ・ヨーロッパ・アメリカ・オーストラリアなど世界中から医学・遺伝学・法律・宗教・政治などの専門家が集い、私も比較法学専攻のバイオエシシストとして招待されました。
 '社会と個人による意思決定' をテーマとする討論グループでは、既に当時から体外受精のパイオニアとして著名だったエドワーズ博士やスウェーデンの国会議員アネール女史 (のち国務次官)、遺伝学の権威グラース教授の各氏らと論議を交わし、毎晩夜遅くまでグループ報告の共同作成・執筆にあたったのが、まるでつい昨日のことのようにはっきりと思い起こされます。
 この国際会議から既に11年を経た現在でも生命科学や医療・看護と公共政策の問題を考察する場合の基本的な方向づけとして、この会議の成果は重要な出発点になると私は考えています。
 なぜなら、この会議の全体討議で私が起草・提案した第3項と第4項 (表1) を含めた勧告は、関連国際機関や世界各国の医療機関・研究者たちに大きな影響を与え、この10年以上にわたって、バイオエシックスの1つのモデル・ガイドラインとなったからです。
 この表に示した勧告の要約は、討論グループでの私のメモと会議の公式報告書 (Genetics and the Quality of Life, Report of a consultation, Zurich, June 1973, WCC, Geneva, Switzerland, 1974) に基づいていますが、カッコ内には、その後のバイオエシックスの展開の中で定着してきた原理を示しました。

表1 医療・看護と公共政策
 1) 専門家の責任と義務
 医療・看護専門家は、患者・家族・社会一般のニードに答えるべき '職業的倫理的' 責任を持っている (医療・看護受益権)。医療専門家には、患者・家族に対してのみでなく広く社会一般の人々や政府の政策担当者に対して、専門の知識・情報を分かりやすく伝え、教育する責任と義務がある (国民の知る権利、専門家の知らせる権利)
 2) 決定の主体の明確化
 医療・保健・遺伝など個々人の生命にかかわる処置や政策については十分に情報を与えた上での同意を求めること。患者本人または近親者・家族の '決定' を専門家は尊重しなければならない (Informed Consentの原理および自己決定権)。なお、決定にあたっての情報の提供・助言を与えるための病院委員会などの設置が望ましい (各種の機能別バイオエシックス委員会)
 3) 公共政策
 遺伝子組み換え、体外受精、胚移植、受精卵実験、胎児実験、脳死、臓器移植などをめぐっての '公共政策' のために、専門家や学会、上記に関連する運動体や直接の当事者、さらに広く一般国民などの代表が民主的手続きにより対等な立場で公開された論議を積み重ねること (公正・平等・未来形成の原理)
 4) 人権擁護システムの制度化
 公共政策が、'科学' '倫理' '人類の福祉' といった大義名分による人権侵害を起こさぬためのシステムを国内的・国際的に制度化し、人権保障を法的に確立すること (国内的・国際的立法化および統一基準の作成)
 (1973年 '遺伝学と生命の質' に関する国際会議小分科会および勧告要約)

生命科学と公共政策

 エドワーズ博士だけではなく、世界中の多くの第一線で活躍している生物・医科学研究者は、その研究の極めて初期の段階から '社会的・倫理的影響' をめぐって積極的に発言しています。それは一般に科学・技術研究が '中立' であるとの神話が崩壊し、科学者の社会的発言と責任がますます問われる時代となってきたからなのです。
 特に生物・医科学研究の臨床面での広範な応用によって、良くも悪くも深刻な影響をこうむる患者やその家族、更に社会一般の人々が積極的に発言し、これらの専門家たちと平等な立場で問題解決にあたるための '公共政策' をつくり出していかねばなりません。
 このようなバイオエシックスの1つのプロセスとして、この約20年間、世界の各地で、生命科学の急激な発達と人間や社会のあり方をめぐって超学際的な国際会議が数多く開催されてきています。
 一般の市民を含め、多くの分野にわたる専門家の間での開かれた対話と、公共政策づくりの運動が着実に展開されてきているのは、旧来の閉鎖的な '専門家集団' や '学会' '行政機関' などのイニシアティブによる問題解決方式が結局は破綻してしまったという深刻な反省によるところが多いのです。
 もちろん、'専門家集団' 内での合意に基づいた基準や提案が、一般国民による '公共政策' づくりのためのたたき台となるという意味では必要なことですし、また望ましいことであるのは、いうまでもありません。

生命科学と人権

 私自身は、スイスに在任中の1975年に '生命科学と人権' についての国際会議を主催し、その組織と運営の任にあたりました (ボセイ・エキュメニカル研究所で)。
 この会議での '体外受精小分科会' での討議は、重要な問題点を明確に浮かび上がらせているので、要約して表2に掲げておきましょう。

表2 体外受精実験をめぐる見解 (1975年 '生命科学と人権' 国際会議, ジュネーブ)
項目 賛成 (条件つき) 全面的反対
受精卵 人となる可能性を持つが人 (Person) ではない 受精の瞬間より神聖・不可侵な人間生命
許諾および期限 精子および卵子の提供者の許諾。使用目的についての説明をし一定期間 (着床前) の限度内で実験を進める (約2週間) いかなる条件下でも実験を許可しない
倫理的問題の審査 委員会による研究目的および倫理上の問題の審査を前提にすること いかなる条件下でも許可しない
臨床治療としての条件 法的な配偶者間に臨床実験を行うということを目的での体外受精実験を認める いかなる条件下でも許可しない

 現在の時点で、特に私が指摘しておきたいのは、'体外受精' をめぐる問題が人体実験 (臨床治療実験) をどう考えるかというコンテクストで論じられてきたということです。しかも体外受精児の生まれるはるか以前から、受精卵、生まれる子供、母親の人権などをめぐって法律上・倫理上、更に哲学や宗教・社会の観点から多くの論議が積み重ねられてきたのです。
 このようなバイオエシックスの学問的な蓄積と国際的な公共政策 [例えばWHO, CIOMS (国際医科学協議会), WMA (世界医師会) などの基準や宣言など] をふまえて、私たちも日本での '公共政策' づくりを展開すべきでしょう。
 この点で、ようやく1982年12月に我が国でも最初の '倫理委員会' が徳島大学医学部に設置されたのは非常に大きな意義を持っていると思います。昨年、一時帰国の折、私も専門委員として招きを受け、2月12日の同大学医学部倫理委員会で意見を述べる機会が与えられました。そこで、その折の私の見解を私自身のメモに基づいて整理し、表3に掲げておきましょう。

表3 体外受精研究・実験に関する公共政策 (1983年2月12日, 徳島大学医学部倫理委員会での木村利人専門委員見解要旨)
 I. 統一基準の必要性
 1) 諸外国、国際機関に既存のように我が国においても '人を対象とする生物・医科学研究・実験' のための統一基準の立法化を図ること。体外受精研究・実験は、その大きな枠組みなしに個別に論じられてはならない
 2) 上記立法において、施設内倫理審査委員会の設置を定め、患者・被験者の人権保障システムを制度化する
 3) 特に国公立の諸施設および公的研究補助費を受けている場合、上記委員会の設置を決定的に義務づける
 4) 施設内倫理委員会は、生物・医科学のみならず、関係各分野にわたる専門家および非専門家、施設所在地域の代表、看護専門家および女性委員を必ず構成員とし、その調和を配慮する
 5) 我が国の公的機関、公的基金、補助金などによるすべての生物・医科学研究、臨床実験、治療処置などは、上記委員会の審査を受ける
 6) 包括的な人体実験 (臨床治療) の統一基準の枠内での体外受精・胚移植研究・実験のためのガイドライン作成の必要性がある
 II. 体外受精・胚移植の研究・実験基準
 1) 臨床治療の目的の範囲内に限定
 2) 法的な配偶者よりのインフォームド・コンセントを得る (文章による確認)
 3) プライバシーの尊重
 4) 専門家によるこの医療処置以外に不妊症の治療の見込みがない時に限る
 5) 動物実験による安全性の確認
 6) 着床期をこえた受精卵を実験に使用しない (提供者の許諾を受ける)。不特定の研究目的による受精卵の保存禁止
 7) 遺伝子操作を行わない
 8) 胚に異常が生じた場合、関係当事者にその情報が伝えられるべきである。また当事者の同意なしに一方的な研究・実験・臨床医療行為の中止、または人工妊娠中絶を行わないこと
 9) 記録の保持
 III. 公共政策
 1) 体外受精などに関連する人間の生命操作の問題を '不妊症の治療' という医療技術の局面に限ることなく、広くバイオエシックスの視座から論ずるアプローチを確立すること (例えば、夫婦のあり方、実子や養子を持つこと、持たないことの意義、家族・親子関係の新しいあり方など、宗教・歴史・文化・法律・社会の各専門家からの検討も必要である)
 2)公正な医療財源の配分に関してのこの臨床医療処置の妥当性の検討 [医療公務員による公的な医療研究機関・病院などでの公的な財源を使用しての医療行為のあり方の問題をめぐっての統一見解。1984年6月現在、米国では公的研究基金 (連邦・州) を使用しての体外受精・胚移植研究は一切行われていない]
 3) 健康保険の適用による経費負担の賛否についての検討

胚移植と代理母

 体外受精とは、いうまでもなく体外で精子と卵とを受精させ、その受精卵 (胚) を母親の体内に移植 (胚移植) する操作のことをいいます。したがって、この技術を応用すれば、第三者の卵による受精卵の移植をうけて、子供を産むことも可能になります。
 つまり通常の人工授精 (AIH : 配偶者間の精子と卵によるもの、およびAID : 非配偶者間によるもの) では、子供を産めない場合 (特に卵に欠陥がある場合など) にこの技術が利用されることになります。
 更に病気などの理由で子宮を摘出してしまった人が、自分の卵と夫の精子とによる体外受精・胚移植による自分の子供を第三者に '代理母' として産んでもらうことも可能になるわけです。
 現在アメリカ合衆国では人工授精の場合、'代理母' 契約を結んで行うこともあります (夫の精子により第三者に子供を産んでもらう方式) ので、これに対応して悪用や誤用を避けるため、米国産婦人科学会ではバイオエシックス委員会を設置して代理母の倫理的問題点に関する声明書を作成しました ()。
 その最終草案の検討を求めて、同委員会委員長のゴードン博士 (Dr. Myron Gordon) は昨年4月5日に私たちの研究所を訪れ、私もその作成のプロセスをうかがい討議に加わりました。
 5月に公表された最終的な声明によると、代理母方式をAIDと対比して、その妥当性と問題点を指摘し、現在の時点では、これに対し医学的・法的・倫理的に '慎重な留保' を示しつつ、仮に医師がこれにかかわる場合は、代理母の選任プロセス (受精・遺伝検査を含む) への関与、所定の経費以上の支払いを求めぬこと、代理母契約当事者間の不当な支払いの取り決めにタッチしないこと、妊娠のケアに対し理由のいかんを問わず責任を持つこと、代理母が '決定の主体' であることなどについて勧告しているのは注目されます。
 現在の段階では人工授精方式による '代理母' が社会的な問題となっているからこそ、このような現実的な勧告の形での専門家による対応策が出てきたのです。
 ただし今後は、体外受精と胚移植による方式での出産 (ただし卵は第三者のものなので、人工授精におけるAIDに対応します。この場合、'人工授卵' という造語が必要となるでしょう) が増えてくるかもしれません。
 つまり、自分の卵ではないのですが、夫の精子による胚移植を受ければ自分のおなかを痛めて赤ちゃんを産むことになり、むしろ '代理母' に産んでもらって、後に引き渡しの拒絶をうけたりして裁判上の争いになるケースを避けられると考えられるからなのです。
 ケネディ研究所で私の同僚であるレロイ・ウォルターズ博士 (Dr. LeRoy Walters) はバイオエシックス・センターの所長としてこの分野の権威ですが、心理的にも倫理的にも、このような '人工授卵' '体外受精' '胚移植' による方式のほうが通常の '代理母' の方式よりも受け入れられやすいのではないかと述べています。

人権ガイドライン

 生命科学の発達は、私たちに大きな恩恵をもたらしつつあります。子供がどうしても欲しいという親の願いも、先端科学・技術の応用により可能となりつつあります。特に、次の世代に大きな影響を及ぼす '生命操作' のあり方については、特定の専門家の一方的な判断にゆだねることなく、正しいバイオエシックスのプロセスをふまえた '公共政策' をつくり出していかなければなりません。
 そして、今まで述べてきたような '体外受精' '人工授精' '代理母' などに関連する臨床研究実験や治療処置に、直接・間接かかわりを持たざるを得ない看護専門家としても、積極的に発言しなければならない職業的責任を持っていますし、また特定の態度決定をしなければならないのです。
 既に1975年4月、アメリカ看護婦協会 (ANA) は、'臨床研究およびその他の研究における看護婦のための基本的人権ガイドライン' を基本方針として採決しています。これは、看護婦 (士) が自ら臨床治療研究・実験を行う場合はもちろん、それらの研究実験の補助者として担当者の下で任務につく場合、患者・被験者の人権が最大限に保障されるよう基準を定めたものです。
 この連載で繰り返し述べてきたようなバイオエシックスの基本原理として、次の諸点が指摘されています。
 すなわち、1) 患者・被験者の同意 (文書による)、2) プライバシーの尊重、3) 臨床治療研究に参加しない自由およびそのことによる不当な差別をうけない権利、4) 看護専門家としての病院・研究施設内のバイオエシックス委員会への参加 (委員会構成員として) の権利、5) 医療消費者としての患者に関する情報を知らされる権利、6) 患者からの同意文書の保管 (他の医療記録とともに) の確認およびその文書取得は、あくまで臨床治療などの主任担当者が直接行い、看護婦(士)が代行しないこと、などが定められています。
 人体実験 (臨床治療の名目による) が事実上行われているにもかかわらず現在、わが国には、国や地方のレベルで、これに関する倫理審査を定めた法律や基準は一切ありません。患者や被験者の人権を守るためのバイオエシックス・ガイドラインの作成が私たち国民の1人1人、特に医療従事者にとっての大きな課題の1つなのです。
(つづく)


次号/
バイオエシックス・セミナー (9)「遺伝子治療の意味」に続きます。

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