ヒトの遺伝・生物の科学・遺伝 別冊5号, 裳華房, 1993, pp. 168-174.

  • V. 社会と遺伝学Prof. Rihito Kimura wearing a smile

    ヒトの遺伝とバイオエシックス
    宗教的アプローチの意義


    木村利人

     宗教的エトス (ethos) のあるところでは人々は遺伝病を含めあらゆる病い、苦難を積極的に受容し、さらに精神的、肉体的な癒しを求め苦痛を和らげるための実践的試みを行っている。
     悩み苦しめる者を救うためのあらゆる学問的な知識とその応用への宗教的サポートは、絶対的超越者の秩序の範囲内において正当化されうる。
     現代世界で今も生き生きと活動し、大きな影響力をもつさまざまな宗教の遺伝病へのかかわりを考察すると、非宗教化された社会における人間疎外の状況が浮かびあがってくる。人間の心と身体の病いの問題の解決をハイテク医療の中だけに閉じ込めることなく、より幅広く宗教、歴史、文化をふまえつつ、"自己決定権" を中心に構想・形成されてきたバイオエシックスの立場から人間の遺伝をめぐる問題に宗教的にアプローチすることにはきわめて大きな意義がある。

    はじめに

     本稿では遺伝とバイオエシックスの問題点をめぐって、今までわが国では必ずしも多くは論じられてこなかった "宗教的アプローチの意義" について考えてみたい。とくにわが国においては遺伝に由来する疾患への偏見もかなり残存しており、これらを家系・親族の恥としたり、宗教的な事由による問題回避への傾向や、祟り、悪霊などの理由による人身攻撃や人権侵害もみられるからである。
     私たちの人生におけるさまざまな悩みや苦しみ、病気、また喜びや楽しみなどを現代に生きる宗教者は、それぞれ各自が信じ告白する宗教上の教えや信条に従って解釈し日々を過ごしている。宗教者各人の価値観や倫理観はしばしば特定の伝統的社会・宗教規範と重なり合う場合もありうるし、個人の独自の宗教体験に根ざす場合もあろう。ただ、現代に生きる世界的な広がりをもった宗教はいずれも特定の文化、民族、人権、地理等の限界を越えた "超越性" を特徴としている。
     このような現代における宗教の意義をふまえつつ、本稿ではとくに "遺伝医学の進歩に伴うバイオエシックスの問題" について積極的に提言をしてきている世界のキリスト教関連組織の動向に加えて、ユダヤ教、仏教およびイスラム教等の専門家による考え方や対応にも言及してみたいと思う。(Kimura, R.: Religious aspects of human genetic information. In Human Genetic Information : Science, Law and Ethics, Ciba Foundation Symposium 149, Wiley, 1990)

    1. 遺伝情報を知る目的 - 遺伝病の苦しみと宗教の倫理

     1989年にストラスブールで開催された欧州評議会 (Council of Europe) 主催の第一回バイオエシックスの国際会議の開会プログラムの最初には、地中海性貧血 (thalassemia) の発生を予防するためのギリシャ正教会による信者への啓蒙活動やカウンセリングの状況やその成功の理由などの評価がビデオで上映された。
     このような遺伝病への宗教のきわめて積極的なかかわりは、筆者も含め参加者一同に大きな感銘を与えた。それはバイオエシックスのテーマが正に宗教的日常生活の中に定着し、結婚や育児、家族の健康という実際的な倫理問題と結びついているありさまを映像化していたからであった。この国際会議への参加者には医師、遺伝学等医学研究者、法律家、哲学者、行政・政策担当者をはじめ宗教者が多かったのも印象に残った。
     遺伝学研究の進歩と発展は、遺伝病という直接的には本人の責任に帰せられない疾患による苦しみや悩みに役立つという具体的ニーズにも応えてますます展開されるべきであろう。現在、わが国をはじめ欧米先進諸国や国際協力により推進されつつあるヒト・ゲノム情報の解析はこの点からも重要な意義をもっていることは言うまでもない。
     ただし、これらの遺伝情報が遺伝病でもない健康な人間の資質の改造のための研究に利用され、新しい "優生学" をもたらさないための厳格なルールが求められている。この点に関し1990年に犬山市で開催された国際医学団体協議会 (CIOMS)日本学術会議の共催による「遺伝学、倫理及び人間の価値観」に関する国際会議では「犬山宣言」を採択し、未来の世代への直接的影響をもたらすと想定される生殖細胞での遺伝子操作などを行わないことを提言したことは国際的にみて大きな意義がある。(Bankowski, Z. and A. Capron : Genetics, Ethics and Human Values - Human Genome Mapping, Genetic Screening and Gene Therapy, Council for International Organizations of Medical Sciences, Geneva, 1991)
     現代において、伝統的な世界的諸宗教は生命や世界や人生の "目的" は何であるかについて私たちに根源的な問いを投げ掛け、それへのさまざまな回答を示してきている。新しい知識を知る目的にしてもそれぞれの宗教の教義に応じ、その限界の中での知識の利用を条件として正当化されてきたといえよう。当然のことながら、これらの世界的諸宗教の教えにみられるある意味での共通性としては、たとえば "超越者への献身" "他者への愛" "生き物への憐れみ" "自然への共感" などがあげられよう。厳格な教えの解釈によりその基準にある程度の差は生ずるとしても、これらの目的を原則的にかつ大幅に損なうかたちの知識の獲得と利用は宗教倫理的には受け入れられないことになろう。
     人間生命の生物学的・遺伝学的研究は、"ヒト遺伝子" の総体である "ヒト・ゲノム" 研究へと至るのが自然のなりゆきであろう。(Kimura, R. : Das japanische Forschungsprojekt. In Genomanalyse und Gentherapie, Hans-Martin Sass (Hrsg.), Springer-Verlag, Berlin, 1990) このような "ヒト・ゲノム解析" 情報の解析とその知識の取得それ自体については、現在のところ宗教倫理面でとくに大きな問題はないと考えられる。米国では、かつて遺伝子組換えや遺伝子治療に関連して「大統領バイオエシックス委員会」が1983年に宗教諸団体からの問題提起を受けての調査・報告を行ったことがあったが、基本的にはこれらの研究の方向づけは1974年に成立した国家研究・調査法 (PL-93-348) による施設内審査委員会 (IRB) やNIH (国立保健研究所) のガイド・ラインに則して行われることになっている。ヨーロッパ諸国ではフランス、デンマーク、オランダ政府などがバイオエシックス調査・研究機関を設置し、前述の欧州評議会も遺伝関連の諸問題を含め加盟23カ国によるバイオエシックス特別委員会 (CAHBI) を1985年に発足させている。

    2. 遺伝学と生命の質 - 病苦・宗教・医療

     このような遺伝学の発展に伴う倫理的問題点については、世界中の約300のプロテスタントとオーソドックス (東方正教会) のおもな教派の教団の加盟による「世界教会協議会 (WCC)」が今から約20年も前の1973年に「遺伝学と生命の質」をテーマにチューリッヒで国際会議を開催し、当時専門家の間で世界的にかなり注目を集めた。
     その最終報告書においては、遺伝的事由により生ずる疾患や苦しみの問題についてつぎのように述べている。

     「遺伝的欠陥を少なくしようという目的の一つは、人間の苦しみの軽減にある。確かに苦難は人が生きていくうえで避けがたい出来事であるにしても、それはしばしば避けられうるしなくすことも可能である。遺伝的欠陥は患者自身に対して身体的、精神的制約を与えることによって、時にその生命への危険をもたらし、またそれにより他者への身体的、心理的、経済的な負担をもたらすことにもなる」

     またこの報告書は、人生における "苦難" の存在と意義をキリストの生き方に範をとりつつ認めながらも、苦しみを避け、病いを癒すのを求めるのがキリスト教信仰だとしている。さらにこの信仰は苦しみや悩みにあるものと共にあることを受け入れ、人生での回避不能な苦難に際してはその苦難を通しての神の恵みを願うに至るとしている。(Birch, C. and P. Abrecht : Genetics and the Quality of Life. Pergamon Press, N. Y., 1975)
     一方、カトリック教会の立場によると、ヨハネ・パウロ二世は1984年2月11日に教書を出し、苦難のもつ積極的意義にふれている。すなわち苦難をキリストの救いにおいて意義づけるという神の啓示は消極的態度とはまったく別であり、むしろその正反対こそが真実であるとした。「福音とは苦しみに直面しての消極性の否定である」と指摘されている。このようなカトリックの立場にたつ神学者たちはつぎのように述べている。

     「遺伝的欠陥児出生に関して各個人が決断を行なう権利は教会や社会により尊重されねばならないし、その決定により何らかの責めが負わされるようなことがあってはならない」……「カトリック教会による遺伝相談は人工妊娠中絶を勧めることなく、両親の決断の自由をも無視せずに遺伝障害についての教育を促進する一方、両親がもっている遺伝的に避けがたいリスクに対してのむしろ楽観的で生命肯定的な態度をも助長するのである」(Ashley, B. and K. O'Rourke : Health Care Ethics. Catholic Health Care Association of the United States, St. Louis, Missouri, 1982)

     このような苦難と人生との論議は "遺伝病" とのかかわりで宗教者がしばしば取りあげてきている。仏教でも必ずしも運命的に苦難が定められているということにはならないと筆者は理解しているが、わが国においては前世の因果や業ごう (karma) と結びつけられて遺伝病の苦しみや疾患が受け取られ、仏教的諦めの境地による消極的受容がなされてきたように考えられる。(Ohkura, K. and R. Kimura : "Japan" in ethics and human genetics. In A Cross-Cultural Perspective, Wertz, D. and J. Fletcher eds., Springer-Verlag, 1989)
     タイの仏教哲学者ラタナクン博士はつぎのように述べている。

     「仏教においては、苦難もまた幸福と同じように変化にさらされているという事実を受け入れている。しかし同時に、仏教は幸福と苦難にはバランスはないのだと指摘もしている。幸福の側面に対するよりも、経験上の苦難の側面に対し常に重点がおかれているのである。しかしながら、どのように悲観的にみえようとも仏教は、生命の苦しみの側面に焦点を当てるためにいささかのてらいも偽りもなく苦難の現実に取り組もうとする。同時に、仏教は苦難の原因やそれをなくすための方法を求めて苦難の事実の根底にあるものを探ろうと試みる」(Ratanakul, P. : In Health Policy, Ethics and Human Values, Bryant, J. and Z. Bankowski eds., CIOMS, Geneva, 1985)

     ここでユダヤ教の伝統では生命と苦難をどうとらえるかにふれておこう。ユダヤ教の律法学者 (Rabbi) であるマイヤー博士は「生命には無限の価値があり、どんなに弱い生命であっても同じように価値がある」と述べ、「人間生命の基盤は他者のために役立つ可能性があるかどうかとか、自ら健康であるかどうかといったことに因るのではない」としている。「生命は絶対的価値をもつ。苦痛、苦難、精神的苦悶にさいなまれていても」生命は尊いので、「人間は生命への絶対的権限を有しない」し「生命保持のための責任をもち、そのために食物を求め、病気になれば医療を求めるように義務づけられる」という見解を表明している。(Meier, L. : Jewish Values in Bioethics. Human Science Press, New York, 1986)
     このようにさまざまな宗教的伝統とその教えの理解によれば、遺伝疾患を含めての病気の苦難をむしろ積極的に受け止めることによって、その治療と回復への努力の方向が見いだされることになるのだといえよう。現在と未来の世代の遺伝的病苦をできるだけ軽減し、未来に向けての希望ある生の意義を説く宗教的エネルギーが、たとえば前述のようなギリシャ正教会による遺伝カウンセリングの正しい知識に基づいた「Thalassemia キャンペーン」に結実し、宗教倫理の実践面からも大きな具体的成果をあげたことは高く評価されるべきであろう。

    3. 遺伝情報利用の目的 - 遺伝病の治療と予防の倫理

     各個人の臨床治療上の遺伝情報の利用に加えて、全国的あるいは地域的に遺伝病予防のための遺伝情報の利用についても関心が高まっている。たとえば、イギリスの臨床遺伝学会 (Clinical Genetics Society in the U. K.) の作業部会は1978年に12項の勧告をまとめた。最初の3項目を要約すると、「つぎの世代に遺伝欠陥をもたらすおそれのあるリスクの高い個人を探し出し、追跡調査し、カウンセリングするための登録を義務づけ、情報を与え、さまざまなオプションを与える。地域ごとに遺伝情報センターを設置するが、登録は各個人の充分な知識と評価なしになされない」といったことになる。(Emery, A. E. H. et al. : A Report on genetic registers. Journal of Medical Genetics, 15, 435-442, 1978)
     確かに、遺伝病のいくつかの事例では苦しみや痛みもかなり激しく、社会的な負担もかなり重いケースもあり、遺伝病の治療と予防の面からの医療による積極的介入が望ましいし、また倫理的にも正当化されうるとも考えられる。
     ただ筆者としては、このような遺伝病の治療と予防のための組織的アプローチの意義は認められるにしても、あくまで各人の自己決定権を尊重する立場から、登録の義務化を含む遺伝欠陥の医療行政的管理化には必ずしも賛成できない。とくにわが国の社会的状況の中では、地域の遺伝情報センターが仮に設置されたとしても、そこに診断・登録に行ったとなれば、地元の人々の噂の種になったり、結婚、就職、就学等での不利もありうると予想されるからである。もちろん各人としては、それぞれ結婚や出産等に直接に関連する遺伝の病気についての各自の遺伝情報の把握を含め、飲食、運動、ドライブなどのライフ・スタイルに倫理的責任をもつことが求められている。
     遺伝欠陥だけでなくあらゆるヒト遺伝情報の収集と管理は、特定の個人の心身の健康・病気に関する過去と現在をふまえての未来予測にも利用されうるので、保険会社や一般企業においても、このような個人情報へのニーズが高まっている。すでに米国では遺伝子検査を含む健康チェックを就職希望者に対し実施しているところもでてきている。
     このように、ヒト・ゲノム解析研究の成果が遺伝病の治療や予防の大義名分のもとに特定の遺伝子の保因者を選別し、差別し、就職や被保険者となる折りに困難をもたらす危険性が起こりえよう。自然や生活・労働環境の中での有害要因の除去に積極的になるよりも、問題とされる遺伝子保因者を排除しようとする発想は、地球上の多様な人間存在に積極的な価値を認める現代の多元的な社会形成への方向に逆行するものであろう。
     宗教者の立場からは、新しい生命・医科学知識やその人間への適用には、ヒト・ゲノム解析情報の利用のあり方も含めてきわめて慎重であるべきであり、とくに根本的かつ長期的視野での問題との取組みがなされなければならないといえよう。
     この点に関して、ユダヤ教のラビであるヤコボビッツ師は大要つぎのように指摘している。

     「遺伝子工学は癒しの歴史に素晴らしい一章を加えることになろう。しかしながら、あらかじめ規制やもっとも厳格な制限について取り決めることなしに人間の命を機械のように扱い、自然の領分を人間が侵害すれば取り返しのつかない惨害をもたらすことにもなろう。つまり人間を単なる道具一部分品、精子提供者、生体保育器としての潜在的可能性で価値づけたり、なにものにもかえがたい人間の尊厳を試験管や注射器や非情なコンピュータの数字に置き換えたりすることが人間の機械化を招来するからである。身体と心と精神の微妙なバランスによる融合体としての人間存在は決して単なる実験室の諸条件や科学的装置の産物などではありえないのである」(Jakobovits, I. : Some letters on jewish medical ethics. Journal of Medicine and Philosophy, 8, 217-224, 1983)

     現代世界における信者数とその地域的広がりからみて、きわめて大きな影響力をもっているイスラム教では、このような問題をどのようにとらえているのであろうか。イスラム国際医学機構によるイスラム医学規範の第10条は医師と生命医科学技術の進歩について規定し、その第6項には「現存する教典や律法中に見いだせない前例なき事項については、イスラムの格言 - 善の見いだされるところに神の法あり - に拠る」と記されている。
     科学研究についても、近代西欧科学の礎ともなったイスラム科学の伝統にふさわしく、いっさいの制限を置かず、神のつくり出した問題の内にある神の "しるし" を明らかにするのが学問だとしている。しかし「科学研究の自由の名のもとに人間に隷属を強いてはならない」し、科学研究は確実な、あるいは可能性の高い害悪については明白にすべきなのである。その一方で「臨床的、物質的ニーズに積極的に対応することが科学研究には求められている」とするのがイスラム医学規範の説くところである。
     いずれにせよ、さまざまな宗教の教えそのものの中から、遺伝学を含む現代生命・医科学やその技術の発達について直接引用可能な箇所を見いだすというよりも、むしろ幅広く人間や生命、創造と自然へのかかわり、結婚、家庭、性、出産、病苦、救い、老、死といった観点からのバイオエシックス的決断へのアプローチがなされている。そして、そのような各個人の決断へのアドバイスやカウンセリングの役を担ったのが遺伝相談などの特別のコースでの研修により資格を得た教会の牧師、神父などの聖職者たちであった。遺伝と倫理をめぐる問題は、欧米の教会には約20年以上にわたる幅広く開かれた論議の蓄積がある。比較的に宗教に疎遠であり、しかも欧米のキリスト教の伝統とはまったく異なった社会に生きている私たち日本人にとっても、これらの論議や研究・調査には今も学ぶべきことがきわめて多くあることは言うまでもない。

    4. バイオエシックスの発想と遺伝カウンセリング

     心身の健康や病いの癒しは医療機関のみならずさまざまな宗教組織や団体にとっての大きな関心事となっている。そもそも宗教的用語として使用されるようになった "救済" のもとの意味はラテン語のsalvusすなわち "健康" "安全" "癒し" であったとされているし、多くの宗教教典は信ずるものの全人間的救いや病いからの救いをも説いている。宗教者が生命と医療に直接関係する「バイオエシックス公共政策」作りへの寄与の責任と義務をもつようになったのは世界的にみて1960年代からの大きな社会変動や価値観の変化の中での当然の成りゆきであったといえよう。
     旧来は医療と倫理の問題を単なる医師・患者の臨床治療関係の中に閉じ込め、結局は専門家の指示に従うのが良いのだとしてきた。これに対して、バイオエシックスの発想では医療における "自己決定" を中心にしつつ医療・看護専門家も平等な立場で、聖職者や一般市民ともども社会的合意を目指しての "公共政策" 作りを提言する。
     また実際に、コミュニティの教会などはこのようなバイオエシックスの発想を展開し、遺伝カウンセリングなどを実践してきた。周知のように遺伝カウンセリングの基本概念も徹底した各個人の自主性を尊重する非指示的 (non-directive) なあり方へと確立するにいたった事由も、このような時代的背景の理解があって初めて納得されうるのである。
     各自の健康、身体、心への関心も増大し、病気や手術にあたってのインフォームド・コンセント (情報を充分に与えられたうえでの納得に基づく同意) も欧米諸国での医療の現場では定着している。生命・医科学研究のための審査委員会 (Institutional Review Board) や病院倫理委員などには地元の一般市民代表や聖職者が必ず委員として参加している。遺伝学の専門家として知られている聖職者もかなり多い。たとえば、筆者が現在の米国での研究の本拠としているジョージタウン大学の医学部・病院での遺伝カウンセリング部門では、臨床遺伝医学者として有名なDr. Baumiller (イエズス会神父) が長らく部長の任にあった。カウンセリング部では妊娠した夫婦のための遺伝講座を含め胎児診断で判明したさまざまな異常や疾患の説明や対応などのセミナーが必要に応じ開催され、もちろん両親との個別面接も行われている。なかには、胎児が何らかの疾患をもっていることが診断の結果判明し、そのための特別な出産の準備をするケースもある。月平均100人を越える来診者があり、胎児の遺伝疾患問題のほかにも、母体の薬物使用 (麻薬)、アルコール依存症、喫煙、エイズへの被患とその他のさまざまな自然的・人工的に有害と思われる環境要因による胎児への影響などもこのカウンセリングでのテーマとなっている。このような米国の状況をみるにつけても、やがてわが国をはじめ世界的にも "遺伝子プール汚染の問題" へのバイオエシックス的取組みが重要なテーマとなることは明らかである。
     前述のような1960年代からの社会変動や価値観の変革をもたらした要因の一つは女性の開放の運動であって、セルフ・ケア運動や自宅出産などの女性の "自己決定権" を中心にしたフェミニズムの思想が社会的にも定着する。1970年代に入ると米国やカナダのキリスト教団・教派や全国協議会などでは、一般の信者を対象に遺伝カウンセリングのパンフレットを刊行し、熱心な遺伝教育活動を行ってきている。これは、1973年に米連邦最高裁判所の判決でそれまで非合法だった "人工妊娠中絶" が女性のプライバシーの権利として認められたこととも関連があると考えられる。一方、宗教上の理由で絶対に中絶を認めない生命絶対尊重 (Right to Life) グループもあり、この問題は政治的にも1992年度の米国大統領選挙の重要な争点の一つともなった。選択の権利 (Right to Choose) を含め、"自分たち自身のいのちを守り育てる" ために1960年代以降、米国でのコミュニティの草の根運動が作り出してきた「バイオエシックス公共政策」の潮流は今後の米国社会の保守的な動向の中で大きな揺れ戻しの状況に直面することにはなろうが、逆流はしないというのが筆者の考えである。

    おわりに - メンデルの「小さな庭」にて

     遺伝学の祖とも言うべきメンデルはカトリックの神父だった。ブルノ市の郊外の修道院裏にある、メンデル神父がエンドウを栽培したという「小さな庭」が筆者にはきわめて印象的だった。
     1990年6月、チェコスロバキヤの旧コミュニスト体制が崩壊し、ハベル大統領の下での最初の総選挙が行われており、プラハの街は活気に満ちていた。まさにこのときに、WHOの主催により、このメンデルの修道院のすぐ近くの会議場で「精神医学における分子遺伝学の倫理的諸問題」についての国際シンポジウムが開かれたのだった。専門的な精神医学と分子遺伝学の最近の成果をめぐっての報告がつぎつぎとカラースライドに写し出された。
     筆者の報告は「遺伝学における法」というテーマで、わが国における優生保護法と精神衛生法とを手掛かりに遺伝関連立法のあり方を「患者の人権擁護とバイオエシックス」の視座から論じ、批判したものであった。(Kimura, R. : Jurisprudence in genetics. In Ethical Issues of Molecular Genetics in Psychiatry, Springer-Verlag, Berlin, 1991)
     日本やドイツ、英米においての遺伝学の純粋に学問的で善意の営みもイデオロギー的差別や支配のシステムに利用されえたことを歴史は示している。そのことを私たちはどれほど事実に即して知っているのであろうか。学問は社会の中に生まれ育つ。遺伝学も例外ではなかったのだ。
     遺伝学の学問としての進歩と発展を世界の社会史のコンテクストの中でとらえ直し、遺伝病患者の立場から、あるいは動物や植物の側からの発想で遺伝学を考えたらどうなるのかと、筆者はメンデルの修道院の「小さな庭」の片隅に立って考えた。
     そして、今ここに述べてきたような現代に生きる世界の諸宗教の知恵と教えが、これらの問いへの回答の手掛かりを示しているのではないかと筆者には考えられるのである。

    文 献

    1)飯野徹雄:遺伝子科学とその将来. 高度技術社会と人の生き方, 東京大学出版会 (1986).
    2)井上英二:世界におけるヒト・ゲノム研究の現状. 生命倫理, 第1号, 1-9, 日本生命倫理学会 (1991).
    3)大倉興司・木村利人:遺伝子診断・治療とバイオエシックス - その日米比較 -. Medical Way, 4 (1), 51-60, 日本医事新報社 (1987).
    4)大倉興司:遺伝相談におけるバイオエシックス. メディカル ヒューマニティー・特集バイオエシックスII, 木村利人 編, 3 (3), 55-61 (1988).
    5)木村利人:いのちを考える - バイオエシックスのすすめ. 日本評論社 (1987).
    6)木村利人:人間遺伝子解析とバイオエシックス. ヒューマン サイエンス, 3 (1), 27-33, 早稲田大学人間総合研究センター (1990).
    7)クリムスキー・S.:生命工学への警告. 木村利人監訳・玉野井冬彦 訳, 家の光協会 (1984).
    8)中村雄二郎:臨床の知とは何か. 岩波新書 (1992).
    9)松永 英:遺伝子プール汚染の問題. 未来への医学, 高安久雄他 編, 講談社 (1980).
    10)松原謙一:組み換えDNA技術の医学・生物学への応用. 医 - 科学と人間 I, 創造の医学, 吉田常雄監修, 学会出版センター (1983).
    11)トバック・E. 他著:科学の名による差別と偏見. 本村良治・岡本和子 訳, 新曜社 (1979).


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