序章:本研究について


 21世紀の本格的な高齢化社会到来を目前にして、今、全ての世代の国民が高齢者の立場を改めて省みれば、社会の在り方を捉え直さなければいけない時期に来ているといえるだろう。特に、現在の社会に提起されている高齢者関連の様々な問題を考える時、何よりも大切なことは、まず当事者たる高齢者個々人の自律性の尊重に基づく適切な支援ではないだろうか。このように考えれば、高齢者の自己決定が、実際の政策や施策へと活かされていく過程を明らかにすることが肝要であると考えられる。
 特に、高齢者関連の諸問題にアプローチする場合、如何なる場合においても、その当事者である高齢者の人間としての尊厳を第一義に捉えるべきであることは勿論のこと、社会の主導的存在としての高齢者の自己決定を積極的に捉えることで、その人生の可能性を最期まで支援していくことが必要である。
 人間の最大の可能性が人生の最後の最後まで存在する1ならば、人間にとって「老い」とは、それまでの人生で培ってきた様々な知識、教養、経験、価値などから、自らの最大の可能性を引き出す好機とも捉えることができるだろう。この「好機」を積極的に意識して活かしていくことで、やがて訪れるであろう最期の時まで、生きる意義を実感し続けることが出来れば、それは人間ゆえの素晴らしい人生といえるだろう。
 この人生の素晴らしさを感じながら高齢期を過ごすための一つの重要な要素として、「ケア」の問題があげられる。特に、制度や政策における高齢者ケアへの問いは、医療福祉制度や社会保障制度等全般に及ぶものであり、医療保険における診療報酬での評価等の「経済」面も含む2、医療・福祉・社会サービスの全般的な課題といえるだろう。
 昨今、「老いと社会と政策」をめぐって、異業種がマルチ・ディシプリナリーに集い、高齢者ケア政策に互いに了解し合い、触発し続けていくには、何らかの枠組みが今後、ますます必要となってくるだろう。その上で対話可能なチームワークが実践の現場だけではなく、研究の世界でも要請されている3
 そこで、本研究では、高齢者ケアの在り方を見つめ直し、そこに見出され得る当事者たちの意思が、ケアの自己決定の理念として政策決定に取り入れられ、終局的に、臨床の場面に活かされるプロセスについて取り上げ、バイオエシックスに立脚した検討を試みる。
 なお、このような高齢者関連の制度や施策をめぐっては、従来、経済や法律などの各分野から論じられることはあっても、バイオエシックスの立場から考察されることは極めて少なかった。従って、本研究では、敢えてバイオエシックスならではの観点から、国内・海外の関連論文などに批判的考察を加えることにより、高齢者ケアに関する政策決定過程へのアプローチを試みたい。この研究によって、さらなるバイオエシックス公共政策の発展形成に寄与することが出来れば幸いである。

0-1. 本研究を行うにあたって

 今、「老い」を迎えた高齢者のケアについて考えることは、人間の在り方、そして、それを包含する社会の在り方全体を追求していく上で、意義のあるアプローチであるといえるだろう。これは同時に、高齢者個々人の意思を積極的にケアに活かし、そこから導き出された当事者たちの自己決定を、如何に政策決定のレベルにまで体現し得るかという、今後のバイオエシックス公共政策の重要課題の一つでもあるのではないだろうか。
 高齢化社会への移行に向けて、我が国では高齢者のケアをめぐる様々な問題状況については、既に数多くの論議が多様な領域においてなされ続けており、当然の如く、バイオエシックスにおいても大きな研究テーマとなっている4。特に、昨今の介護保険をめぐる問題状況は、我が国の高齢化社会の在り方を考える上でバイオエシックスがアプローチするべき必須課題の一つであるだろう。
 高齢化社会におけるバイオエシックスの問題としては、大きく以下の3つの分野があげられる。第1に、高齢化社会におけるハイテク医科学技術の発展に伴う決定、例えば、生命維持装置の使用などの積極的な医療による生命への徹底的介入の問題を始めとするバイオエシックスの問題である。第2には、高齢者の「quality of life (QOL) 」の評価をめぐるバイオエシックスの問題がある。第3には、これから益々増加の一途をたどる高齢者の「ケア」を社会としてどう方向付けるかというバイオエシックス公共政策の問題があげられる5
 本研究は、上述したもののうち、第3のバイオエシックスの問題の範疇において、高齢者の自己決定に基づくケア・サービスについて考察した上で、グランド・テーマとしての「高齢者ケアに関する政策決定過程」の在り方についてアプローチするものである。
 従って、バイオエシックスに立脚した高齢者ケアの在り方を、個々人や専門家集団の良識・行動基準・倫理を前提としつつ、更にその次元を超えて民主主義社会における公共のルールとして機能し、社会に組み込まれたシステムとしてのバイオエシックス政策6に如何に適用させていくか、が本研究の主眼である。
 ところで、高齢者ケアを論じる際、一言で「ケア」と言っても、その概念のもつ豊かさや奥行きは広く深い。本研究では、「ケア」が論じられる際の、(1) 臨床的/技術的レベル、(2) 制度/政策的レベル、(3) 哲学/思想的レベルの三つの場面7のうち、特に、個々の現場を超えた、制度に関わる次元としての (2) のレベルに着目し、バイオエシックスに基づく「高齢者のケア・サービス」とそのマネジメントの在り方について考察する (図0-1を参照)。

本研究における高齢者ケアの捉え方

 上述した (1) と (3) が、それぞれミクロとマクロのレベルのケアの場面と考えれば、(2) は(1) と (3) における各場面の間に介在して、ケアの理念を現象化するメゾのレベルの場面であるといえるだろう。
 本研究においては、まず、このメゾのケア・レベルにおける (2) のダイナミズムにバイオエシックスの原理が適用されることで、ミクロのケア・レベルの (1) で見出された自己決定が、マクロのレベルの (3) で高齢者ケアの普遍的な理念として確立する過程を提起してみたいと思う。その上で、その「自己決定」の普遍的理念が、再び (1) のケア場面に、当事者の生活の質の改善に則したケア・コンセプトとして帰する過程を考察してみたい。
 つまり、臨床の場面に見出された当事者個々人の「自己決定」が、政策決定過程を通して普遍的理念として確立し、再び当事者たちの恩恵として公正に帰するプロセスを考察することが本研究の「ケア」へのアプローチである。従って、本研究では、あくまでも当事者の「自己決定」のコンセプトを中心に、(1) から (3) の各レベルの諸相に影響を及ぼす (2) の制度/政策の場面における「ケア」に主眼を置いて、バイオエシックスの諸原理からのアプローチによる考察を進める。

0-2. 本研究の概要

 本研究では、まず第1章において、ケア・サービスで高齢者が自己決定を下す際のリソースとなる、当事者の有する価値の多様性について考察する(図0-2を参照)。
 この多様性について、自律尊重原理を中心にバイオエシックスの諸原理からアプローチすることで、高齢者個々人の自己決定の基となる自律尊重の原理の重要性を検討する。さらに、高齢者ケアに関する政策決定過程において、ケアの当事者たる高齢者個々人の自律性の尊重に寄与するものとして、他のバイオエシックスの諸原理を捉え直すことを試みる。その上で、個人の自律性が、社会から最大限に保障される可能性について考察する。

本研究概要図

 第2章では、前章で述べたバイオエシックスの諸原理の捉え方に基づいて、これまで高齢者ケアに関する諸政策が決定される上で問題となってきた社会保障制度の変遷とそれに伴う政策決定過程の経緯について考察を進める。ここでは、特に平成10年11月に総理府社会保障制度審議会事務局が公開した報告「老人保健・医療・福祉のあゆみ」をもとに、適宜、現状の諸問題に照らしながら考察を進めるものである。
 特に、近年の社会保障制度の策定の経緯から、(1) 高齢者福祉をめぐる諸問題と、(2) 老人保健制度をめぐる諸問題について、適宜、関連諸制度の概要を参照しながら考察を進める。
 まず、(1) では、老人福祉法をめぐる「施設福祉対策」と「在宅福祉対策」の概要を述べた上で、施設福祉対策の制度上の課題として、施設管理者側と当事者側との間のインフォームド・コンセントの重要性や入所判定委員会の在り方、さらに、措置費の受給者負担の問題について取り上げる。その上で、「ケアの質」を維持させる仁恵的支援と、そのために費やされる費用の配分的正義をめぐる、倫理的・道徳的葛藤をバイオエシックスの観点から考察する。ここでは、特に、「施設福祉対策」をめぐる諸問題に主眼を置くことで、在宅福祉中心の複合型の福祉供給サービス体制への政策決定上の方向性を推論する。この推論から「在宅福祉対策」との制度横断的な統合化が必要不可欠であろうことを指摘し、「老人保健法」制定までの政策決定の経緯について考える。
 以上の政策決定の経緯をめぐる考察を受けた形で、(2) では、老人保健法制定から新ゴールドプラン策定までの経緯をめぐる諸問題について考える。ここでは、特に、医療と福祉、あるいは施設と在宅の中間的存在であるべき「老人保健施設」の意義について捉え直した上で、その背景にある国庫の配分的正義と、サービス利用者の自己決定化されたニーズを保障上でのケア供給者側と受給者側のbeneficenceとしての支援をめぐる葛藤の問題を考える。
 さらに、この考察から、国庫の財源の配分的正義を満たす施策のみならず、高齢者個人の自律の程度に則した、最大限の「仁恵的支援」としての保障体系 - 例えば、社会的入院を縮小するための在宅サービスの地域への浸透や拡充等を考慮した施策の必要性について考える。
 さらに本章では、ゴールドプラン (高齢者保健福祉推進10カ年戦略) から、現行の新ゴールドプランの策定までの政策決定過程をめぐる諸問題について、バイオエシックスの観点から考察を進める。なお、ここでは、各市町村・都道府県の「老人保健福祉計画」策定の契機となった「社会福祉関連八法の改正」について触れた上で、各市町村の責任と監督において自らの「官」的サービス供給の体系に、非専門職やボランティアをも含めた「民」の活力を一層取り入れる施策の必要性を考慮した上で、「官」と「民」による、それぞれのサービスの適切な統合による「公」的サービス体系の在り方を考える。
 なお、「在宅介護支援センター」及び「老人訪問看護・指導」の制度上の拡充をめぐる「地域の自治体間の格差」の問題点についても取り上げ、1995年に日本弁護士連合会が、全国の自治体に行った福祉サービスの現状と「老人保健福祉計画」に関するアンケート調査の回答結果を例証しながら考察を試みる。
 本章の最後では、「21世紀福祉ビジョン - 少子・高齢社会に向けて」において掲げられた政策目標を概観し、これまで述べてきた、近年の高齢者ケアに関する政策決定過程をめぐる諸問題についての総括をバイオエシックスの観点から行う。
 また、第3章においては、介護保険の制度化に至るまでの、最近の社会保障制度審議会報告書と、それに続く「高齢者自立支援システム研究会報告書」、さらに「老人保健福祉審議会」における介護保険に関する議論の展開を主に取り上げ、介護の保険方式をめぐる政策決定過程を概観する。ここから見出された「社会保険方式の利点」及び「ケアマネジメント導入の必要性」の主張に対して、第4章では、介護保険制度における費用の問題と、「介護の社会化」が志向される上でのケアマネジメントの問題について考察を試みる。この際、第1章で述べたバイオエシックス諸原理の捉え方をもとにアプローチすることで、介護の社会化をめぐるバイオエシックス公共政策の在り方を考える。
 さらに、終章では、第2章から第4章にかけて行った、これまでの高齢者ケアに関する政策決定過程についての概観及び考察をもとに、「地域の自己決定」の捉え方について論じる。ここでは特に、1995 (平成7) 年7月3日に発足した総理府の地方分権推進委員会の動向を取り上げ、国、地域、ケア・サービス当事者個人の政策決定過程における意思決定上の責任の問題について考え、地域の高齢者個々人の自己決定を活かし得る制度の在り方を考察する。この考察から、ケア・サービスの「機能の分担」と「責任の分担」は同一の次元で考えるべきではないことが示唆された。
 特に、ケア・サービスの責任の所在についても、国や各地域公共団体等の「官」的な意思決定の主体が負う義務があり、意思決定の総体としての「公」的責任を国が負うことの必要性について論じた上で、地域の自律性に基づく「自己決定」に寄与し得る「公」的支援の在り方を考察する。
 さらに、上述した考察を踏まえ、国の責任のもと、具体的な高齢者福祉サービスの供給に関する決定を各区市町村が行うことで、地域の高齢者個々人の自己決定を仁恵的支援に反映させるための提言と展望を行い、その倫理的・道徳的妥当性についての検討を加えたい。 

本章の注釈 (1〜7)footnotes


第1章:高齢者ケアをめぐる価値の多様性とバイオエシックス適用の可能性」へ進む。
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