第1章:高齢者ケアをめぐる価値の多様性とバイオエシックス適用の可能性 |
1-1. 高齢者ケアをめぐる価値の多様性 |
1-1-1. 健康・生活・人間の諸側面における高齢者の有する多様な価値 |
1-1-2. 高齢者の時間的特性と身体面における多様な価値 |
図1-1. ケアをめぐる当事者の個人的事象の分類モデルにおける主観の変容20 |
しかし一方で、自己概念とは不変のものではないかという議論もある21。それならば、そこに内包されているべき当事者の様々な価値意識はどうなのだろうか。もし、現在における第2類の身体状態に関する事象、および第3類の身体面以外に関する事象が、ケアの現象面において正しく周囲から客観化されない時、あるいは、その客観化のもととなる外的な環境そのものに、当事者の主観を無視する指標 - 例えば、高齢者個々人は、周囲の価値判断によって決定された計画に従って生活するべきである、といったものが存在するとき、当事者の自己概念の内にある、何らかの価値意識の集合体が不自然に変容してしまうおそれは十分に考えられることではないだろうか。
特に、身体状態の変化に伴う、周囲からの半ば強制的な生活の制約や、それに伴って変容する人間関係の不均衡などによって、高齢者個々人が自らの主観を潜在的に、あるいは顕在的に抑制してしまった時、いわば、その価値判断力に脆弱性が生じてしまった場合に、主体的な意思の発露の基盤となるはずの自律を擁護する「周囲の本来の支援」が見過ごされてしまうことが懸念されてくるのである。
1-1-3. ケア・サービスをめぐって高齢者が有する価値と自律性の捉え方 |
表1-1. 欲求のさまざまな分類24 |
特に、欲求によって引き起こされる行動は、その個人の素質や学習などにより形成されたパーソナリティーにも左右され、また環境との絡み合いにより決定される25ならば、上述したように、生来の基本的な欲求の充足と直結している価値意識の群と、自己とその周囲にある外的な事象との関係性から生じる高次な欲求の充足のための価値意識の群との競合を経て、一定の「欲求」の充足に向けた「行動」が引き起こされると考えられるのではないだろうか。
ここで、高齢者の自己概念を構成する個々人の主観の側からの価値意識に着目し、そこから当事者たる高齢者の主観が、周囲に主体的な意思決定として示される機序を推論してみたい。その上で、自らの適切な価値評価に基づいて、高齢者自身が主体的な判断を下すための自律性の捉え方について仮説をたて、バイオエシックス的な考察へと結びつけていきたい。
まず、個々人が主観の側から直接に規定する価値評価の基準としては、以下の3つの価値意識の要素があげられる。すなわち、諸個人の自発的な行為の直接の内的原因としての「欲求」、個々の欲求や目標の実現可能性や、それらがより高次な欲求の実現にとってもつ有用性・利害得失を顧慮する心理的傾向としての「利害関心」、個々の欲求や目的の規範との適合可能性ないし社会的承認可能性を顧慮する心理的傾向としての「規範意識」である26。 これら3つの要素によって、人間の価値は (1)「欲求的」なもの (快、美、幸福など)、(2) 利害関心的な意味での「手段的」なもの (有用、利など)、そして、(3)「規範意識的」なもの (善、正義など)、として大別することが出来る27とするならば、これらの要素が人間の営為としての人生の諸相に複雑に影響を及ぼし合うことで、個々人の多様な価値観が生起してくるものと考えられるのではないだろうか。
ここで、上述した (1) から (3) の3つの主観的価値評価の基準から、ケア・サービスをめぐって高齢者個々人の価値観が生起する事象について考察してみたい (図1-2を参照)。
まず、「ケア・サービスによって、自らの生活の質を改善したい」という目的を、ある高齢者個人が有しているとすれば、この内容は (2) の手段的価値であるといえるが、それがケア・サービスを利用する当事者たる高齢者個人の「思わず利用せずにはいられない」といった、心理状況で依頼される場合には、その内容は同時に (1) の欲求的価値でもあるといえる。また、「親として、自らがケア・サービスを利用することで子どもたちの負担を軽減させてやりたい」という心理状況でなされる場合には、その内容は (3) の規範的価値であるともいえるだろう。
こうした価値意識の内容は、全て高齢者個々人が有する基本的な「欲求」の価値の次元に基づくものである。同時に、基本的な「欲求」の価値の次元に包含されたかたちで、個人の一層高次な目的意識を孕む手段的価値の次元と、当事者の家族を含む地域共同体(コミュニティ)全体の価値意識を反映した規範的価値の次元が着目されるわけである。さらに、これら3つの主観的な価値評価の基準が競合した結果、高齢者個人の価値観が生起されることで、終局的には、固有の主体的な意思が形成されることになると考えられるのである。
勿論、全ての高齢者各人が、上述のプロセスを経て、自らの価値観を生起させるとはいえない。これは、あくまでも一つの仮定的な論理に基づいた上で、その高齢者個人がケア・サービスを肯定的に捉えた価値観形成の例であり、場合によっては、ケア・サービスに対して否定的な内容の価値意識を抱く高齢者も存在するだろう。あるいは、いずれかの価値基準の欠如、例えば、(2) の基準における個人の利害関心的で手段的な価値意識が著しく抑制されたかたちで、(3) の規範的な価値意識のみが顕在化する場合も当然考えられることである。
例えば、高齢者個人について周囲が理解しているつもりでも、以下の諸事例28のように、その時々の本人の真意を周囲が正しく把握することは非常に困難な場合がある。ここで、個々人の主観の側に混在するであろう多様な価値意識が、周囲によって「当事者の価値判断」として客観化されるまでの過程を概観するために、上述した (1) から (3) の価値意意識の観点に立脚した、個人の主観の側からの価値観形成の機序の仮説に基づいた上で、それぞれの事例ごとに考察を試みてみたい。
もっとも、当事者の主観の内にある価値意識の構造を包括的に推察するには、上述した(1) から (3) の価値意識の観点に基づく仮説のみでは不足かもしれない。しかし、当事者としての個々人が抱く様々な価値意識の中から一つの決定的な価値観が形成され、それが周囲による客観的判断に結びつく過程はけして目に見えるものではなく、且つ、相当に複雑な価値意識の競合を経験すると思われるがゆえに、それを概観して一定の指標を与える上で、敢えて単純化された上述の仮説を用いるものである。
この事例については、当事者の主観において「家族と同居することで自らの不自由を解消したい」という目的に基づく手段的な価値意識が抑制されて、「夫との思い出のある庭を眺めながら余生を送りたい」という生来の個人的な欲求の価値意識が顕在化した結果、それが周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。この場合において、規範的な価値意識の存立は不明であるが、いずれにしても、この欲求的な価値の顕在化までには、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合があったと推察される。特に、「子どもらの善意は嬉しいが、親として彼らに負担をかけさせるわけにはいかない」といった規範的な価値意識との競合も十分あったものと考えられる。 この事例については、当事者の主観において「どこへも行きたくない」という生来の個人的な欲求の価値意識が顕在化した結果、それが周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。他の価値意識の存立は不明であるが、この場合においても、欲求的な価値の顕在化までには、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合があったのではないだろうか。 この事例についても、当事者の主観において「安心したい」という生来の個人的な欲求の価値意識が顕在化した結果、それが周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。他の価値意識の存立は不明であるが、この場合においても、欲求的な価値の顕在化までには、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合が当然あったものと考えられる。 この事例については、当事者の主観において「手術によって治りたい」という生来の個人的な欲求の価値意識が抑制され、「自らが手術を受けないことで、痴呆の妻のそばにいてあげられる」という一層高次な目的に基づく手段的な価値意識、ないしは「夫として痴呆の妻のそばにいてあげたい」という規範的な価値意識が、周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。 この事例については、当事者の主観において「歩きたい」という生来の個人的な欲求の価値意識、ないしは「再び歩くことによって自らの人生をもっと楽しみたい」といった一層高次な目的に基づく手段的な価値意識が、周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。規範的な価値意識の存立は不明であるが、この場合においても、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合が当然あったのではないだろうか。 この事例についても、当事者の主観において「生きたい」という生来の個人的な欲求の価値意識、あるいは「生きることによって自らの生活の質を高めたい」という一層高次な目的に基づく手段的な価値意識が、周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。規範的な価値意識の存立は不明であるが、この場合においても、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合が当然あったはずである。 |
こうした諸事例にも示される通り、ケアの現象面における、周囲による高齢者本人の最大の利益についての評価、すなわち、当事者の諸価値意識から生起するところの確固とした価値観、ないしは真意の客観化は、必ずしも正確に遂行され得なかったおそれがあることが推察される。何故ならば、ケア・サービスの当事者たる高齢者本人が、規範的なものや手段的なものを含めた価値意識の群、ないしは集合体に基づく「欲求」の充足の実現のために、何らかの主体的な意思決定を周囲に表明しきれていなかったものと考えられるからである。
特に、高齢者の真意の判断をめぐっては、本人とヘルスケア従事者の関係が深ければ深いほど、『分かったつもり』や『前と同じはず』といった思い込みがすれを生み出す危険も高く、その上、家族の場合は、これまでの関係性の今後の見通しなど様々な要素が絡み、本人の意思の汲み取りに大きなバイアスがかかってくる29ことがあり得ることを認識しておく必要があるだろう。
また、ケアの様々な場面では、高齢者本人が、その主観に内包される諸価値意識の間に何らかの揺らぎや葛藤を生じる場合も考えられるだろう。その時、周囲が為すべきことは、当事者が自らの価値観を見極めた上での、明確な意思の「自己決定」化を図っていくことではないだろうか。つまり、当事者の主観の側において生じる価値観が、改めて周囲によって「客観化」されるということよりも、当事者たる高齢者の主観の側から自己決定が結実されて周囲に表明される過程こそ大切であると考えられるのである。
このように考えれば、高齢者個々人が自己決定によって、自らの主観の側からのケアの方向付けを周囲に明確に周囲に理解させるためには、何よりも高齢者本人の内にある、主観的な価値評価の各基準の競合において、一貫した主体的な価値観形成のための指標を有する必要があるのではないだろうか。何故ならば、高齢者個々人の主観に内在する様々な意識、例えば、「家族に迷惑はかけたくない」や「家族に迷惑がかかっても、自分の望む生き方をしたい」といった混在する諸価値意識に、一定の前提的な指標をもたせることで自らの生の方向付けを他人に委ねることなく、その多様な価値観を主観の内にも外にも顕在化させることが可能になると期待されるからである。
この観点から、前提的な指標としての自律性の概念を、高齢者個々人の意思決定の過程に適用していくことが、当事者の自己決定に基づくケア・サービスを遂行する上で必要不可欠である、と私は考えるのである。そして、この主観の前提的な指標としての自律の概念に基づいて、高齢者個々人が様々な価値意識を適切に競合させることで、やがて、均衡のとれた価値判断が生じ、主体的意思の発露としての自己決定が生起するようになるとは考えられないだろうか。こうした「個」の高齢者の主観、特に、そこから生起する価値観の多様性についても一層配慮された環境を、ケアの施策の基盤として考えていく必要があると考えられるわけである。そこから、あらゆる諸相において、当事者の主観からの自律を図る、ケア・サービスを展開させていくことが肝要であるだろう。
また、上述してきたことは、痴呆の高齢者への援助をめぐっても例外ではないといえるだろう。痴呆の高齢者個々人が長時間にわたって身に付けてきた基本的な生活行動や、役割をなす「場 (環境)」での "振る舞い" によって発見される、生活障害に対する克服要因 - 残された適応力、防衛力、予備力を動員しての心理機制や精神活動の在り方30、に周囲が着目していくことで、当事者個々人の有する価値観の多様性を認めることができるのではないだろうか。
その際、そうした克服要因に基づいたケア - 例えば、感応的交流31による援助などのように、当事者本人の主体的な価値判断や意思決定に基づいたかたちで、周囲の支援によって当事者の自己決定が導き出されていくことも大切であると考えられる。そして、何よりも痴呆の高齢者へのケアにおいて着目されるべきは、本人が今、何を求めているのか、といった当事者個々人の主観に由来するところの、客観的ではあるけれども「双方向的な」周囲による評価と、それに基づく個人の主体的な意思の導出、ひいては、そこから生み出される痴呆の高齢者に残存する自律性への支援である、といえるのではないだろうか。
こうした臨床/技術のケア場面で適用された高齢者の自律性を周囲が積極的に意識していくことから、個々人の自己決定が生み出されることが期待され、さらには、それが次元の異なるケアの場面、例えば、「制度/政策」や「哲学/思想」のケアの場面を通して、当事者の生活の改善へと還元され得るものになると考えられるのではないだろうか。
このように考えれば、高齢者のケア・サービスにおいて、そこに普遍的に現れるであろう当事者たち個々人の有する価値の多様性の問題について、改めて、臨床/技術のケア場面から注意していくことが必要であるといえるだろう。そして同時に、高齢者の「個の有する価値の多様性」に一定の方向付けと判断の均衡をもたらし得る概念としての「自律」によって、個の集合体である「集団」- 例えば、高齢世代全体の多様なニーズなど - の捉え方として活かせるものになるとは考えられないだろうか。
上述した「臨床/技術」のケア場面から、本研究の主眼となる「制度/政策」の場面、ひいては「哲学/思想」の場面まで、全てのケア・レベルにおける諸場面において一貫して、こうした前提的な指標としての「自律」の概念にあくまでも基づき、当事者の有する「多様な価値」を、その自律性として活かしていくべきではないか、という問題提起をここでしておきたい。
さて、次項においては、この高齢者個々人の自律性を形づくる価値の多様性に、前提的な指標を与え得る概念としての「自律」、特に、自律尊重の原理を中心に、高齢者ケアをめぐるバイオエシックスの諸原理の捉え方について考察してみたい。
本章1-1の注釈 (8〜31) |