第1章:高齢者ケアをめぐる価値の多様性とバイオエシックス適用の可能性


 老齢期を過ごす上で『これまでと同じように暮らしたい』『自分らしく暮らしたい』『自分自身でありつづけたい』という思いは、人々にとって共通の願いであるだろう8。そして、この願いが叶うことは容易なようで、実に難しいことであるだろう。この観点から、高齢者ケアについて考えれば、まずは高齢者個々人の「自律」の有効な支援としてのケアの方策を考察することが肝要といえるのではないだろうか。人間にとっての生活の基本となるべき自律の概念を実際の生活に活かすことの意義を、高齢者個々人に実感させていくことこそ、高齢者ケアの志向するテーマであると考えられるからである。
 このテーマを現実に普遍的なものとするべく、高齢者個々人がこれまでの人生で培ってきた多様な価値に基づいて、それぞれの自己決定を結実させていく支援が必要なことは言うまでもない。しかし、国内の福祉や医療の場では、自己決定に関する社会的な要請が急速に高まりつつある一方で、まだ共通の認識も方法論も十分には育っているとはいえない9のが現実である。さらに、福祉や医療の制度や技術のめまぐるしい変化も相まって、高齢者の自己決定をめぐって様々な混乱や錯綜も生じている10状況である。
 本章では、高齢者が自己決定を下す際のリソースとなる、人間が有する様々な価値に着目して「欲求」と「行動」をめぐる概観した上で、高齢者個々人の多様な価値について考察し、これに基づいたバイオエシックスの諸原理の捉え方、特に、高齢者個々人の主体的意思による自己決定の基となる自律の概念の重要性についての検討を試みる。それに基づいて、高齢者の自己決定が社会にもたらすダイナミズムとその意義を考察し、高齢化社会へのバイオエシックス諸原理の適用の可能性について推論してみたい。

1-1. 高齢者ケアをめぐる価値の多様性

 本項では、本研究の主題となるメゾのケア・レベルにおける「制度/政策」のケア場面の論理的方向付けを明確にするために、まずは、その基盤となるミクロのケア・レベルの「臨床/技術」のケア場面での当事者たちの有する多様な価値に着目して考察する。ケアについての諸問題をめぐっては、ケア・サービスを利用する当事者個々人の有する価値の多様性について推察する必要があるといえるだろう。その上で、高齢者集団全体に共通して適用し得る概念、特に、バイオエシックスの諸原理の適用の在り方について考えていきたい。
 そこでまず、看護の過程を論理的に構成する、健康、生活、人間の3つの主要な概念11について取り上げ、高齢者ケアをめぐって多様な価値を生起させる諸要因を、それぞれのライフサイクルをめぐる時間的特性と身体面に照らして考察を試みてみたい。

1-1-1. 健康・生活・人間の諸側面における高齢者の有する多様な価値

 まず、高齢者の「健康」について概観すれば、個人にとって最高の身体的、心理・社会的均衡を維持しながら、自己の可能性を最大限に発揮するべく統合的に機能し得る状態である「最適健康」は、高齢者各人を取り巻くそれぞれの過去から現在にいたる環境・条件の相違から個人差が大きい。加えて、高齢者の疾病・障害は、修復力・治癒力などの低下により、また慢性疾患が多いために、長期あるいは生涯にわたりやすく、廃用症候群 (disuse syndrome) を引き起こしたり、日常生活動作に大きな打撃を与えやすい12ということがあげられる。このことから、高齢者はその身体面においては長期的な脆弱性を有する傾向にありながらも、個々人の「最適健康」は多様であり、それぞれの健康観も異なることが推察される。
 次に、高齢者の「生活」について考えれば、高齢者同士の夫婦のみ、あるいは高齢者の一人暮らしが増えつつあり、しかも友人達も高齢化が進み、あるいは死別している状況下、以下の生活の質 (QOL) をめぐる諸課題が浮上してきている13。すなわち、 (1) 日常生活遂行上の機能(摂食、排泄、清潔、移動など) は最大可能な範囲に保たれているか、(2) 生きがいがあり、心理的・情緒的に安定しているか、(3) 仲間や相談相手などの支持・励まし、助言や指導、手助けなど、心身のストレス状態にある個人にフィードバックや自己確認の機会を与えるソーシャルサポートがあるか、それによって、(4) 高齢者本人にも何らかの社会的役割があるか、さらには、(5) 経済状態や生活が保証されているか、また、(6) 趣味やレクリエーションの機会があり、自我の統合を目指しているか、(7) 現在の自分の状態に満足感を抱いているか、などである。
 特に、こうした高齢者の生活の質への問いに決定的な解答を与える上での前提となるものは、高齢者個々人の有する多様な価値を如何にケアの現象面に活かしていくか、という個々人の多様な価値に根差した「ケアの質」への問いであると考えられるのではないだろうか。さらに、高齢者本人をめぐるケアの時間的な継続性の観点から考えれば、ケア状況が始まってからだけではなく、それが始まる前からの「人間関係」をも含む14、当事者の生活史をめぐって、様々に生起する「対象となる事象についての価値の評価を下す際の自己の側からの意識」(これを本論における「価値意識」の定義とする) の総体としての価値観の多様性こそ、ケアをめぐる社会的ニーズの基盤として捉えることが求められているといえるのではないだろうか。
 それにはまず、当事者たる高齢者が自らの価値観を形成する様々な価値意識について、主体的に周囲に客観化できるような「ケアの質」の方向付けを考えていくことが必要であるだろう。この場合、自らのケアを方向付ける概念として自律の在り方が改めて問い直されているといえるのではないだろうか。
 序章において述べたように、高齢者個々人の自律が一貫して (1) 臨床/技術→ (2) 制度/政策→ (3) 哲学/思想のレベルにまで昇華されることで、終局的には普遍的な高齢者ケアの理念として確立させることが肝要であるだろう。上述したケアの質をめぐる諸問題は、第2章において主に扱う「高齢者の自己決定の実現に向けた政策決定過程」をめぐる諸問題と密接に関わり合うものであるが、ここでは、高齢者の有する価値の多様性を考察するだけにとどめておく。
 さて、こうした高齢者の時間的特性と身体面に関する諸問題を包括的に扱う概念として、ここで改めて、多様な価値を有する「人間」としての高齢者について考えてみたい。
 まず、高齢者はライフサイクルの最終段階(老年期)にあり、社会や文化、生活習慣などの影響を受けて個人差が大きい。さらに、高齢者は身体・心理・社会的な統合的存在であり、統合体として内部・外部環境の変化に影響されやすく、適応するのに困難を生じやすい15。特に、こうした「認識をもつ有機体が社会関係のなかで互いにつくりつくられる諸過程の統一体」として「人間」を捉えた場合16における高齢者の有する価値について考える際、過去の人生の時間において培ってきた価値意識の不可変性とともに、それらが「現在」における環境の諸要因をも統合して、一定のケアにおける価値観として決定付けられる過程の可変性を意識せざるを得ない。特に、安静のためベッド上に拘束された者は、所属集団から隔離されることによって、家族や社会からの疎外を強く意識するとともに、社会的役割期待を遂行することへの願望と遂行できない現実への自己認知との葛藤を生じる17ため、自らの主観による意思決定が不明瞭になる場合も十分考えられるだろう。
 こうしたことから、高齢者個々人は、自己決定のリソースとなる確固たる「過去」からの価値意識の不可変性を自らの主観の側に有しながらも、それが一つの主体的な意思の発露として周囲に理解させるまでに、特にケアの「現在」の面において、相当な価値意識の可変性が生じるものと推察されるわけである。なお、ここでいう「可変性」とは、外的な諸要因によって当事者の価値判断に揺らぎや葛藤が生じる傾向、「不可変性」とは、当事者の主観が外的な諸要因から何らかの影響を及ぼされながらも、その価値判断は、主体的な意思にあくまでも基づく傾向を表す用語として用いるものである。

1-1-2. 高齢者の時間的特性と身体面における多様な価値

 ここで、以下の分類モデル18を提示した上で、高齢者の時間的特性と身体面の観点から、個々人の有する価値の多様性について考えてみたい。すなわち、(1) 身体状態に関する過去の事象- 詳しい既往歴や薬物に対するアレルギー反応の有無など、あるいは、比較的近い過去のこととしてその老人がケア状況に身をおくに至った身体上の諸問題とその経緯など、(2) 身体状態に関する現在の事象 - ケアの現在の時点での身体状態についてのアセスメント、ADLのレベルの把握など、(3) 身体面以外に関する現在の事象 - ケア当事者たる老人の生活状態全般の把握、心理状態、ケア従事者や他の老人たちとの関係の在り方、家族との関係など、(4) 身体面以外に関する過去の事象 - ケアの当事者たる高齢者の生い立ち、家族関係、職業経験、主要な個人経験、背景にある歴史的、時代的特徴など、の4領域における個人的事象から、ケアにおける当時者の主観の変容をめぐる価値意識の不可変性と可変性について推論を試みるわけである (図1-1を参照)。
 まず、現在 - 過去の時間軸と身体 - 非身体の観念軸の中心に、当事者の主観があると仮定するならば、当事者はその主観の側において、過去の第1類の身体状態に関する事象、および第4類の身体面以外に関する事象から、人生観や死生観、あるいは、ケア観といった価値観の基となる様々な価値意識を抱くはずである。
 さらに、高齢者個々人が、こうした諸価値意識を包含するかたちで「自己への評価としての自己概念19」を主観の側で形成しているならば、その内には当然、時間や身体の変化によって変質しない、固有に確立された価値意識の集合体が存在し得るだろう。例えば、ケアの過去から現在に至る状況において、一貫して当事者が「自分の身体は頑強である」といった価値観を有しているとすれば、それは、その当事者の主観の側において培われてきた様々な価値意識の不可変的な集合体、あるいは、一つの確固とした価値観に基づく「欲求」として客観化され得るものである。

ケアをめぐる当事者の個人的事象の分類モデルにおける主観の変容

図1-1. ケアをめぐる当事者の個人的事象の分類モデルにおける主観の変容20

 しかし一方で、自己概念とは不変のものではないかという議論もある21。それならば、そこに内包されているべき当事者の様々な価値意識はどうなのだろうか。もし、現在における第2類の身体状態に関する事象、および第3類の身体面以外に関する事象が、ケアの現象面において正しく周囲から客観化されない時、あるいは、その客観化のもととなる外的な環境そのものに、当事者の主観を無視する指標 - 例えば、高齢者個々人は、周囲の価値判断によって決定された計画に従って生活するべきである、といったものが存在するとき、当事者の自己概念の内にある、何らかの価値意識の集合体が不自然に変容してしまうおそれは十分に考えられることではないだろうか。
 特に、身体状態の変化に伴う、周囲からの半ば強制的な生活の制約や、それに伴って変容する人間関係の不均衡などによって、高齢者個々人が自らの主観を潜在的に、あるいは顕在的に抑制してしまった時、いわば、その価値判断力に脆弱性が生じてしまった場合に、主体的な意思の発露の基盤となるはずの自律を擁護する「周囲の本来の支援」が見過ごされてしまうことが懸念されてくるのである。

1-1-3. ケア・サービスをめぐって高齢者が有する価値と自律性の捉え方

 人間はさまざまな欲求を持ち、その捉え方も様々である (表1-1を参照)。例えば、マスロー (A. H. Maslow) は、人間の基本的な欲求を、1) 生理的欲求、2) 安全に対する欲求、3) 帰属や愛情に対する欲求、4) 権力や尊敬に対する欲求、5) 成長、自己実現に対する欲求、6) 認識的欲求、7) 審美的欲求としている22
 こうした欲求の捉え方をめぐっては、いわゆる、生きるための「基本的欲求」から、理想的な自己の存在価値に向けての欲求 (メタ欲求) までの心理的な諸相に関する様々な階層化が考えられるが、ここでは、それら諸相の欲求を生み出すであろう、主観の側にある様々な意識、特に、価値意識の次元に着目して考察を試みてみたい。
 まず、欲求について、個体保存、種族保存の本能とよばれる生理的欲求 (一次的欲求) と、社会生活としての経験に支えられた社会的欲求 (二次的欲求) とに大きく分けることができ、これらいずれも人間を行動にかりたてる重要な条件となる23と考える時、個人の主体的「行動」を発動させる意思の決定を生じせしめる、主観の側の価値意識について次のことが推察される。すなわち、最初に前者に相当する、生来の欲求から生まれる様々な価値意識があり、それらに基づいて、あるいは包含されるかたちで、後者に相当する、自他の関係性による欲求から生起する諸価値意識が混在することが考えられるのである。

表1-1. 欲求のさまざまな分類24

 欲求のさまざまな分類

 特に、欲求によって引き起こされる行動は、その個人の素質や学習などにより形成されたパーソナリティーにも左右され、また環境との絡み合いにより決定される25ならば、上述したように、生来の基本的な欲求の充足と直結している価値意識の群と、自己とその周囲にある外的な事象との関係性から生じる高次な欲求の充足のための価値意識の群との競合を経て、一定の「欲求」の充足に向けた「行動」が引き起こされると考えられるのではないだろうか。
 ここで、高齢者の自己概念を構成する個々人の主観の側からの価値意識に着目し、そこから当事者たる高齢者の主観が、周囲に主体的な意思決定として示される機序を推論してみたい。その上で、自らの適切な価値評価に基づいて、高齢者自身が主体的な判断を下すための自律性の捉え方について仮説をたて、バイオエシックス的な考察へと結びつけていきたい。
 まず、個々人が主観の側から直接に規定する価値評価の基準としては、以下の3つの価値意識の要素があげられる。すなわち、諸個人の自発的な行為の直接の内的原因としての「欲求」、個々の欲求や目標の実現可能性や、それらがより高次な欲求の実現にとってもつ有用性・利害得失を顧慮する心理的傾向としての「利害関心」、個々の欲求や目的の規範との適合可能性ないし社会的承認可能性を顧慮する心理的傾向としての「規範意識」である26。 これら3つの要素によって、人間の価値は (1)「欲求的」なもの (快、美、幸福など)、(2) 利害関心的な意味での「手段的」なもの (有用、利など)、そして、(3)「規範意識的」なもの (善、正義など)、として大別することが出来る27とするならば、これらの要素が人間の営為としての人生の諸相に複雑に影響を及ぼし合うことで、個々人の多様な価値観が生起してくるものと考えられるのではないだろうか。
 ここで、上述した (1) から (3) の3つの主観的価値評価の基準から、ケア・サービスをめぐって高齢者個々人の価値観が生起する事象について考察してみたい (図1-2を参照)。
 まず、「ケア・サービスによって、自らの生活の質を改善したい」という目的を、ある高齢者個人が有しているとすれば、この内容は (2) の手段的価値であるといえるが、それがケア・サービスを利用する当事者たる高齢者個人の「思わず利用せずにはいられない」といった、心理状況で依頼される場合には、その内容は同時に (1) の欲求的価値でもあるといえる。また、「親として、自らがケア・サービスを利用することで子どもたちの負担を軽減させてやりたい」という心理状況でなされる場合には、その内容は (3) の規範的価値であるともいえるだろう。
 こうした価値意識の内容は、全て高齢者個々人が有する基本的な「欲求」の価値の次元に基づくものである。同時に、基本的な「欲求」の価値の次元に包含されたかたちで、個人の一層高次な目的意識を孕む手段的価値の次元と、当事者の家族を含む地域共同体(コミュニティ)全体の価値意識を反映した規範的価値の次元が着目されるわけである。さらに、これら3つの主観的な価値評価の基準が競合した結果、高齢者個人の価値観が生起されることで、終局的には、固有の主体的な意思が形成されることになると考えられるのである。
 勿論、全ての高齢者各人が、上述のプロセスを経て、自らの価値観を生起させるとはいえない。これは、あくまでも一つの仮定的な論理に基づいた上で、その高齢者個人がケア・サービスを肯定的に捉えた価値観形成の例であり、場合によっては、ケア・サービスに対して否定的な内容の価値意識を抱く高齢者も存在するだろう。あるいは、いずれかの価値基準の欠如、例えば、(2) の基準における個人の利害関心的で手段的な価値意識が著しく抑制されたかたちで、(3) の規範的な価値意識のみが顕在化する場合も当然考えられることである。

 ケア・サービスをめぐる高齢者個々人の主観的価値評価の基準と価値観の生起の一例

 例えば、高齢者個人について周囲が理解しているつもりでも、以下の諸事例28のように、その時々の本人の真意を周囲が正しく把握することは非常に困難な場合がある。ここで、個々人の主観の側に混在するであろう多様な価値意識が、周囲によって「当事者の価値判断」として客観化されるまでの過程を概観するために、上述した (1) から (3) の価値意意識の観点に立脚した、個人の主観の側からの価値観形成の機序の仮説に基づいた上で、それぞれの事例ごとに考察を試みてみたい。
 もっとも、当事者の主観の内にある価値意識の構造を包括的に推察するには、上述した(1) から (3) の価値意識の観点に基づく仮説のみでは不足かもしれない。しかし、当事者としての個々人が抱く様々な価値意識の中から一つの決定的な価値観が形成され、それが周囲による客観的判断に結びつく過程はけして目に見えるものではなく、且つ、相当に複雑な価値意識の競合を経験すると思われるがゆえに、それを概観して一定の指標を与える上で、敢えて単純化された上述の仮説を用いるものである。

  • 事例1:「子どもらは、夫を亡くし一人で暮らす高齢の母が、子どもとの同居を当然喜ぶはずだと思い、引き取る準備をはじめていたが、本人は暮らしには色々な不自由があっても亡父と丹精こめてきた庭を眺めながら自宅で暮らす覚悟を決めていた。」

     この事例については、当事者の主観において「家族と同居することで自らの不自由を解消したい」という目的に基づく手段的な価値意識が抑制されて、「夫との思い出のある庭を眺めながら余生を送りたい」という生来の個人的な欲求の価値意識が顕在化した結果、それが周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。この場合において、規範的な価値意識の存立は不明であるが、いずれにしても、この欲求的な価値の顕在化までには、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合があったと推察される。特に、「子どもらの善意は嬉しいが、親として彼らに負担をかけさせるわけにはいかない」といった規範的な価値意識との競合も十分あったものと考えられる。


  • 事例2:「肺癌末期で入院を繰り返している一人暮らしの女性で、医療関係者や娘はもう在宅は困難と考えていたが、本人は『どこへも行きたくないと小さな声とまなざしで』訴えた。」

     この事例については、当事者の主観において「どこへも行きたくない」という生来の個人的な欲求の価値意識が顕在化した結果、それが周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。他の価値意識の存立は不明であるが、この場合においても、欲求的な価値の顕在化までには、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合があったのではないだろうか。


  • 事例3:「子どもらは、本人が施設の入所を嫌がるはずだから在宅しかないと思っていたが、本人は日中や夜間は一人で寂しく恐ろしく、むしろ施設の方が安心で入りたいと考えていた。」

     この事例についても、当事者の主観において「安心したい」という生来の個人的な欲求の価値意識が顕在化した結果、それが周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。他の価値意識の存立は不明であるが、この場合においても、欲求的な価値の顕在化までには、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合が当然あったものと考えられる。


  • 事例4:「医師や子どもらは、本人が癌の手術を当然受け入れると思っていたが、本人は痴呆の妻を老人病院に預けてまで、かなり長期の入院を要する手術を受けるつもりはないと判断していた。」

     この事例については、当事者の主観において「手術によって治りたい」という生来の個人的な欲求の価値意識が抑制され、「自らが手術を受けないことで、痴呆の妻のそばにいてあげられる」という一層高次な目的に基づく手段的な価値意識、ないしは「夫として痴呆の妻のそばにいてあげたい」という規範的な価値意識が、周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。


  • 事例5:「医師や配偶者は本人が100歳近い高齢だから骨折の手術をせずに温存的に治療すべきと思っていたが、本人は再び歩きたいので手術を願っていた。」

     この事例については、当事者の主観において「歩きたい」という生来の個人的な欲求の価値意識、ないしは「再び歩くことによって自らの人生をもっと楽しみたい」といった一層高次な目的に基づく手段的な価値意識が、周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。規範的な価値意識の存立は不明であるが、この場合においても、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合が当然あったのではないだろうか。


  • 事例6:「医療者や家族は、本人は高齢であるから、もう延命を望んでいないと判断し、栄養補給を打ち切った後に、本人が実は生きたい、という強い意思を抱いていたことが分かった。」

     この事例についても、当事者の主観において「生きたい」という生来の個人的な欲求の価値意識、あるいは「生きることによって自らの生活の質を高めたい」という一層高次な目的に基づく手段的な価値意識が、周囲に主体的な意思決定として示されたものと仮定され得る。規範的な価値意識の存立は不明であるが、この場合においても、当事者の主観の内に、様々な価値意識間の競合が当然あったはずである。

  •  こうした諸事例にも示される通り、ケアの現象面における、周囲による高齢者本人の最大の利益についての評価、すなわち、当事者の諸価値意識から生起するところの確固とした価値観、ないしは真意の客観化は、必ずしも正確に遂行され得なかったおそれがあることが推察される。何故ならば、ケア・サービスの当事者たる高齢者本人が、規範的なものや手段的なものを含めた価値意識の群、ないしは集合体に基づく「欲求」の充足の実現のために、何らかの主体的な意思決定を周囲に表明しきれていなかったものと考えられるからである。
     特に、高齢者の真意の判断をめぐっては、本人とヘルスケア従事者の関係が深ければ深いほど、『分かったつもり』や『前と同じはず』といった思い込みがすれを生み出す危険も高く、その上、家族の場合は、これまでの関係性の今後の見通しなど様々な要素が絡み、本人の意思の汲み取りに大きなバイアスがかかってくる29ことがあり得ることを認識しておく必要があるだろう。
     また、ケアの様々な場面では、高齢者本人が、その主観に内包される諸価値意識の間に何らかの揺らぎや葛藤を生じる場合も考えられるだろう。その時、周囲が為すべきことは、当事者が自らの価値観を見極めた上での、明確な意思の「自己決定」化を図っていくことではないだろうか。つまり、当事者の主観の側において生じる価値観が、改めて周囲によって「客観化」されるということよりも、当事者たる高齢者の主観の側から自己決定が結実されて周囲に表明される過程こそ大切であると考えられるのである。
     このように考えれば、高齢者個々人が自己決定によって、自らの主観の側からのケアの方向付けを周囲に明確に周囲に理解させるためには、何よりも高齢者本人の内にある、主観的な価値評価の各基準の競合において、一貫した主体的な価値観形成のための指標を有する必要があるのではないだろうか。何故ならば、高齢者個々人の主観に内在する様々な意識、例えば、「家族に迷惑はかけたくない」や「家族に迷惑がかかっても、自分の望む生き方をしたい」といった混在する諸価値意識に、一定の前提的な指標をもたせることで自らの生の方向付けを他人に委ねることなく、その多様な価値観を主観の内にも外にも顕在化させることが可能になると期待されるからである。
     この観点から、前提的な指標としての自律性の概念を、高齢者個々人の意思決定の過程に適用していくことが、当事者の自己決定に基づくケア・サービスを遂行する上で必要不可欠である、と私は考えるのである。そして、この主観の前提的な指標としての自律の概念に基づいて、高齢者個々人が様々な価値意識を適切に競合させることで、やがて、均衡のとれた価値判断が生じ、主体的意思の発露としての自己決定が生起するようになるとは考えられないだろうか。こうした「個」の高齢者の主観、特に、そこから生起する価値観の多様性についても一層配慮された環境を、ケアの施策の基盤として考えていく必要があると考えられるわけである。そこから、あらゆる諸相において、当事者の主観からの自律を図る、ケア・サービスを展開させていくことが肝要であるだろう。
     また、上述してきたことは、痴呆の高齢者への援助をめぐっても例外ではないといえるだろう。痴呆の高齢者個々人が長時間にわたって身に付けてきた基本的な生活行動や、役割をなす「場 (環境)」での "振る舞い" によって発見される、生活障害に対する克服要因 - 残された適応力、防衛力、予備力を動員しての心理機制や精神活動の在り方30、に周囲が着目していくことで、当事者個々人の有する価値観の多様性を認めることができるのではないだろうか。
     その際、そうした克服要因に基づいたケア - 例えば、感応的交流31による援助などのように、当事者本人の主体的な価値判断や意思決定に基づいたかたちで、周囲の支援によって当事者の自己決定が導き出されていくことも大切であると考えられる。そして、何よりも痴呆の高齢者へのケアにおいて着目されるべきは、本人が今、何を求めているのか、といった当事者個々人の主観に由来するところの、客観的ではあるけれども「双方向的な」周囲による評価と、それに基づく個人の主体的な意思の導出、ひいては、そこから生み出される痴呆の高齢者に残存する自律性への支援である、といえるのではないだろうか。
     こうした臨床/技術のケア場面で適用された高齢者の自律性を周囲が積極的に意識していくことから、個々人の自己決定が生み出されることが期待され、さらには、それが次元の異なるケアの場面、例えば、「制度/政策」や「哲学/思想」のケアの場面を通して、当事者の生活の改善へと還元され得るものになると考えられるのではないだろうか。
     このように考えれば、高齢者のケア・サービスにおいて、そこに普遍的に現れるであろう当事者たち個々人の有する価値の多様性の問題について、改めて、臨床/技術のケア場面から注意していくことが必要であるといえるだろう。そして同時に、高齢者の「個の有する価値の多様性」に一定の方向付けと判断の均衡をもたらし得る概念としての「自律」によって、個の集合体である「集団」- 例えば、高齢世代全体の多様なニーズなど - の捉え方として活かせるものになるとは考えられないだろうか。
     上述した「臨床/技術」のケア場面から、本研究の主眼となる「制度/政策」の場面、ひいては「哲学/思想」の場面まで、全てのケア・レベルにおける諸場面において一貫して、こうした前提的な指標としての「自律」の概念にあくまでも基づき、当事者の有する「多様な価値」を、その自律性として活かしていくべきではないか、という問題提起をここでしておきたい。
     さて、次項においては、この高齢者個々人の自律性を形づくる価値の多様性に、前提的な指標を与え得る概念としての「自律」、特に、自律尊重の原理を中心に、高齢者ケアをめぐるバイオエシックスの諸原理の捉え方について考察してみたい。

    本章1-1の注釈 (8〜31)footnotes


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