遺伝子診断・治療とバイオエシックス
■特集 臨床医に必要な遺伝子診断・治療の知識
- 公共政策形成過程の視座 -
キーワード : バイオエシックス 生命倫理 公共政策 遺伝子診断・治療
はじめに
この二十数年間、国際的にヒトの遺伝をめぐっての「バイオエシックス」について大きな関心が寄せられてきた。患者、家族はもちろんのこと、遺伝科学研究者、臨床医、WHO などの国際医療関連組織や国際的宗教組織、世界各国の医療・保険会社からも注目を浴びてきた。それは、最近の遺伝科学の急激な進歩が、遺伝病をはじめ従来不治とされてきた癌やエイズ、そのほか、ごく一般の人々にとってもそれぞれの個人の遺伝的脂質にも由来するとされる多くの疾患の遺伝子診断や治療に成果がある可能性が生まれつつあるからでもあろう1,2)。
日本においても、厚生省をはじめ人類遺伝学会や家族性腫瘍研究会などでは、遺伝子診断・治療に関するガイドラインの策定やインフォームド・コンセント文書の整備などにおいて、バイオエシックスの視座からのアプローチも検討され、それに沿った遺伝子診断や遺伝子治療臨床研究の展開もみられる3,4)。
本稿においては、これらの国際的・国内的な動向をふまえつつ、遺伝子診断・治療の問題点をバイオエシックス公共政策形成過程の視座から考察することによって、筆者なりの現時点での問題提起と提言をしてみたい。
I. 遺伝子診断・治療と「患者 - 医師関係」
バイオエシックスにおける公共政策形成過程の視座からみると、遺伝子診断・治療のコンテキストのなかで旧来の「患者 - 医師関係」は新しいあり方への大きな変革に直面している。
1. 遺伝子検査・診断とプライマリ・ケア
第1に、現在最も大きな医療面での変革の展開は、先進国はもとより開発途上国においても、プライマリ・ケアのなかにコストの面でも安価な遺伝子検査・スクリーニング・診断などが大きなスケールで組み込まれつつあることである。日本でも行われてきた出生前診断、周産期医療への適用や、遺伝病のスクリーニングをはじめ、さらに今後は癌・糖尿・肥満の遺伝因子の解明などがヒトゲノム・プロジェクトの進展につれて可能となろう5)。プライマリ・ケア医による診察は聴診器によるよりも、まず遺伝子検査データの解析からということになろう。すでにアメリカでは、出生前診断に関連して患者に十分な遺伝情報を伝えなかったとして、医療側が敗訴となった例も出ている。
プライマリ・ケア医が遺伝子検査・診断の患者への情報提供とその相談に最も相応しいという考えが強調される一方で、小児科や産科医の役割の重要性や遺伝カウンセリング専門家の独自性も指摘されている6)。特に、日本での医学教育や医師の卒後・生涯研修専門教育においては個別の専門医学分野の枠組みを超えて、患者を中心とするバイオエシックスの発想による「患者 - 医師関係」のなかでの新しい遺伝教育カリキュラムの実施が急務であることを提言しておきたい。
2. 疾病概念の変化と遺伝差別
第2に、今まで人々は何らかの疾患をもち健康でないから「病気」であった。しかし、これからは、現在全く心身共に問題なく健康であっても、特定の遺伝子の保因者として「発病していない病気の患者」であると診断され、可能な場合には、予防的手術などによる治療を受ける時代になりつつある。治療法がないケースも多いからである。つまり、「病気」や「患者」「治療」という従来の医療におけるコンセプトの意味内容が大きく変化しつつある。人々の「健康」についての考え方も根本的に問い直され、ひいては保険加入や就職・教育の機会均等を阻害する新しい遺伝差別が正当化される大きな可能性も出てきた。
すでにアメリカでは癌のリスクがあると診断された健康者が雇用主に解雇された事例もあり、社員の遺伝診断による健康増進プログラムが一部では行われている7)。雇用や解職にあたっての遺伝情報の管理と利用が、企業の「経営上の利益」になるとするこのような発想の背景にある「生物学的決定論」「遺伝子還元論」による差別的人間意識も大きな問題であり、個人の健康・遺伝情報の保護を重視するバイオエシックスの視座からは「本人の利益」の観点が強調されねばならない。
臨床医・研究医にとっても疾病の診断・治療、保険加入、犯罪捜査などに関連しての遺伝情報開示の内容と限界、遺伝プライバシーの保護についての正確な知識が求められる。日本においては、違反者への法的処罰を含む総合的な遺伝子情報管理・規制立法の必要性もここで提言しておきたい8)。
3. 遺伝子「治療」か「転移」かの問題点
第3に問題なのは、致死性疾患の患者と医師との関係のなかで遺伝子治療の可能性が取り上げられれば、患者側にはある種の期待の可能性が生まれることであろう。
確かに、体細胞の遺伝子臨床治療研究自体の推進については、現段階で積極的な国際的合意が成立しているといえよう。しかし、現実には遺伝子治療によってある程度の成果があったとされるのはADA欠損症などごく少数例にすぎない9)。となると、倫理的には「治療」という用語の使用よりは、むしろ実験的な遺伝子の「転移」とでも表現すべきであろう。
また、バイオエシックスの視座からは、遺伝子治療臨床研究におけるインフォームド・コンセント文書の内容面での統一を欠いた記述 (患者へのリスクは不明だが患者の余命は短く、いずれにせよリスクは考慮に値せず、したがってリスクはほとんどない、などの表現)10)や、各施設の倫理委員会 (IRB) の構成員にも偏りがみられる (同一機関内部の委員が大多数) などの問題が指摘されている。それらは厚生省先端医療技術評価部会での討議内容のホームページで公開されている議事録を検討すれば一目瞭然である (厚生省のホームページアドレスは http://www.mhw.go.jp/ で、目次にある審議会中の厚生科学審議会をクリックすると先端医療技術評価部会などでの審議内容の議事録や調査結果を読むことができる)。
4. 遺伝教育と専門家の養成
第4に、今後ますます、結婚や子どもを産むことなどをめぐって、当事者同士の家族などと遺伝的につながりをもった人々との関わりと対応とを、より真剣に配慮しなくてはならないことになる傾向がが出てくるであろう。
欧米諸国では、専門的な教育を受けた遺伝カウンセラーや遺伝学を学んだ臨床バイオエシシスト (あるいはバイオエシックス・コンサルタントとして医療・研究関連施設に勤務) が多いが、ここ20年来、神父や牧師などの聖職者が遺伝カウンセラーとしての専門的資格を取得している例も増えてきた。それは欧米社会におけるキリスト教の伝統のなかに、神から与えられた「人間のいのち」の根源ともいえる遺伝子を操作することへの畏れの念と、特定の遺伝子がもたらす人間の苦痛と苦悩とを、人間の知恵と知識の成果である科学の利用によって、何とかして癒したいという願いとのなかから生み出された1つの到達点であるともいえよう11,12)。
5. 患者・家族・医師・サポートグループ
従来の医療においては通常の場合、臨床医が特定の疾患をもった患者個人を対象に診断・治療をしていれば大体はそれですんだ。しかし、たとえば家族性腫瘍の診断や治療の場合の対応においては、兄弟姉妹、親や子どもなど家族、さらに親族、先祖、将来の子孫、そして社会一般へと大きな広がりのなかできわめてセンシティブな、しかし積極的な医療上の対応を迫られることになる。
米国大統領委員会の遺伝に関する報告書では「家族や親族に重大な影響のある遺伝情報の開示」の可能性にふれ、厳格な条件を付しての従来の職業的「守秘義務」の再考も指摘されている13)。この点で、患者個人の遺伝情報というアイデンティティーの内容をめぐって臨床医と患者との関わりは、旧来の医学専門家としての「医の職業倫理」や応用倫理的発想に基づく自己決定的「生命倫理」の枠組みを超えた超・学際的な「バイオエシックス」のアプローチからの検討が必要となる14)。
しかも、今、通常の疾病を媒介にした「患者 - 医師関係」を超えて、患者や家族の社会的な支援を原点とする患者中心の「セルフ・サポート・グループ」などの組織作りは、国際的・国内的な遺伝子診断・治療の国民に開かれた国際的・国内的「公共政策」形成過程への参加へと広がりつつある。アメリカでは現在、約320の遺伝病関連民間ボランティア組織があり、その連合体の Alliance of Genetic Support Group (Washington D.C.) は医師・遺伝専門家、一般市民への教育・研修プログラムを実施している。
さらに指摘しておきたいのは、1998年版の WHO による「遺伝医学および遺伝サービスにおける倫理的問題に関する国際ガイドライン案」である。これは1995年版で、「予防は優生学ではない」としていた見出しの項目などを削除したものであるが、遺伝病の予防という表現がいくつかの文節中にまだ残されている点は問題となろう15)。
II. 遺伝科学とバイオエシックスのルーツ
__- 公共政策形成過程のモデル -
これらの問題点をふまえつつバイオエシックス「公共政策」の国際的な形成過程をその1つのルーツにさかのぼって次に考察してみたい。
すなわち、「遺伝学と生命の質」をテーマに、遺伝科学の急激な進歩発展に直面しての複雑な倫理的問題と公共政策に焦点を合わせた世界最初の国際会議が、1973年にスイスのチューリッヒで開催された16,17)。これは「世界教会協議会」(World Council of Churches) の主催による画期的かつ歴史的に大きな意義をもったごく初期のバイオエシックス国際会議であった。この会議では、まず第1に公共政策の「ガイドライン的アプローチ」が提言された。臨床遺伝医学の急激な進展に直面して、患者家族など一般の人々のために「公共政策としてのガイドライン」を策定することが提言された。
第2に専門家による「超・学際的アプローチ」があげられる。この会議には、1978年に世界で最初の体外受精児の誕生を成功させたイギリスのエドワーズ博士、後に米国大統領バイオエシックス委員会事務局長となり、国際的に注目を浴びたさまざまな勧告書を提出したケイプロン・ペンシルバニア大学教授など、生殖生物学者、法律家、臨床遺伝学者・人類遺伝学者をはじめ倫理・神学者、医師、行政官、国会議員、胎生学者、社会福祉専門家、産科医、免疫学者、精神科医など34人の専門家が世界の各国から招かれた。
日本からは松永 英博士 (当時・国立遺伝研究所人類遺伝部長)、梶井 正博士 (当時・ジュネーブ大学教授) および筆者 (当時・ジュネーブ大学大学院教授/ボセイ・エキュメニカル研究所副所長) などが参加し、筆者自身の造語である「超・学際」(supra-interdisciplinary) 的なバイオエシックス協同作業が行われた。
第3に多元的価値観への「対話的アプローチ」があげられる。この会議では個別テーマをめぐっての全く自由な対話とグループ討議が行われたが、そのオープンな倫理的対応の方向性が注目される。人種、国籍、民族、宗教、文化など、それぞれ異なった背景の参加者たちが、結論を急ぐのではなく対話のプロセスを大事にしつつ、非宗教化された世俗社会での一般市民による倫理的対応とその受容の可能性をめぐる討議を蓄積し、報告書が作成された。
このような3項目のアプローチは、その後のアメリカ、カナダ、ドイツ、フランスなどでのバイオエシックス委員会などのあり方に重なり合っている。各医学研究施設や医療機関などの設置や委員構成などのモデルともいえる。日本の現状では倫理委員会に関しての国の指針は作成されておらず、諸医療機関・医学研究施設等の倫理委員会の構成などは、国際的にみるとまだ1970年代のレベルにもないといわざるをえない。
なお、この国際会議の報告書には筆者による全体討議での提案が取り入れられた。それは、勧告の第6項で「倫理、科学、ヒューマニティの未来の名による遺伝プログラムが乱用される危険性が高いことに多くの人々が脅威を感じている」という内容の一節となって明記された18)。過去の国家的優生政策への反省はむろんのこと、パターナリスティックな医療専門家側にも、そして場合によっては患者中心の自己決定的「生命倫理」を主張する側にも「内なる優生思想」の残滓が潜んでいることをめぐって、当時、特に白熱の論議を交わしたことが強く印象に残っている。今後の日本においても、まさにこの点についてのオープンで正鵠を射る論議がより一層深められねばなるまい。
おわりに
いのちを豊かに守り育てるため、1960年代の草の根の人権運動からバイオエシックスは始まった。その担い手である私たちひとりひとりのバイオエシックス公共政策形成過程への参加の責任は限りなく重い。しかも、それらの機会は審議会の公開・参加や前述のインターネット情報などによって現実のものとなりつつある。
税金や保険料などの拠出によって、国民が遺伝子診断・治療を含むあらゆる先端医科学技術・医学研究や医学教育のスポンサーとなっている以上、国民には知る権利も政策形成過程に参加する権利も存在することは明白である。
遺伝子診断・治療の正しい展開のための健全で、あるべき方向性を「公共政策」として最終的に決定するのは、遺伝子診断・治療の専門家や医療政策担当者、臨床医、患者・家族たちなどの狭義の関係者だけなのではなくて、実は、それらの人々のすべてを含む私たち一般の国民なのである。だからこそ、新しい21世紀の未来に向けての国民のための厚生科学にとって、バイオエシックス研究・教育・制度の展開が国際的・国内的にますます必要不可欠な時代となってきたのである19,20)。
参考文献
1) Kimura R : Jurisprudence in Genetics. ed Burlyzhenkov S, et al, In Ethical Issues of Molecular Genetics in Psychiatry, Springer-Verlag, Berlin, 1991.
2) Bankowski B, Capron AM: Genetics, Ethics and Human Values - Human Genome Mapping, Genetic Screening and Gene Therapy -. Council for International Organizations of Medical Sciences, Geneva, 1991.
3) 厚生省・告示第23号「遺伝子治療臨床研究に関する指針」平成6年2月8日.
4) 厚生省・厚生科学審議会先端医療技術評価部会 (部会長・高久史麿) 第18回議事録 (1999年6月4日), 出生前診断に関する専門委員会報告.
5) Kimura R: Das japanische Forshungsproject. Hrsg Hans-Martin Sass, In Genomanalyse und Gentherapie, Springer-Verlag, Berlin, 1990.
6) Powledge T: Ethical and Legal Implications of Genetic Testing. In The Genome, Ethics and the Law; Issues in Genetic Testing. American Association for the Advancement of Science, Washington D.C., 1992.
7) Office of Technology Assessment, Congress of the United States: Genetic Monitoring and Screening in the Workplace. U.S. Government Printing Office, Washington D.C., 1990.
8) 木村利人: 人間遺伝子解析とバイオエシックス, ヒューマンサイエンス 1990; 3 (1) 27-33.
9) Verma IM, Somia N: Gene therapy-promises, problems and prospects. Nature 1997; 389: 239-242.
10) 厚生省・第11回厚生科学審議会先端医療技術評価部会議事録 (1998年7月22日).
11) Kimura R: Religious Aspects of Genetic Information. In Human Genetic Information: Science, Law and Ethics, Ciba Foundation Symposium 149, John Wiley & Sons, New York, 1990.
12) 木村利人: ヒトの遺伝とバイオエシックス. 遺伝 1993; 別冊5号.
13) President's Commission for the Study of Ethical Problems in Medicine and Biomedical and Behavioral Research: Screening and Counseling for Genetic Conditions. U.S. Government Printing Office, 1983; 44.
14) Kimura R: Bioethik als metainterdiziplinäre Diziplin. In Medizin Mensch Gesellschaft, Band 11, heft 4, 1986 (IV).
15) WHO: Proposed International Guidelines on Ethical Issues in Medical Genetics and Genetic Services. Geneva, Switzerland, 1998.
16) Birch C, Abrecht P (eds): Genetics and the Quality of Life. Pergamon Press, New York, 1975.
17) 木村利人: 先端医療技術とバイオエシックス - エキュメニカルな展望. 神田健次編, 講座・現代キリスト教倫理・生と死, 第1巻, 日本キリスト教団出版局, 1999.
18) Birch C, Abrecht P (eds): Genetics and the Quality of Life. Pergamon Press, New York, 1975; 222.
19) 厚生省・厚生科学審議会研究企画部会 (部会長・矢崎義雄) 第15回議事録 (1999年4月19日).
20) 厚生省・厚生科学審議会 (会長・豊島久真男)「21世紀に向けた今後の厚生科学研究の在り方について」(1999年5月18日).
please send your E-mail torihito@human.waseda.ac.jp