『特技懇』, No. 214, 2000.11.1, 特許庁技術懇話会, pp. 22-26
■《特集》21世紀に向けたバイオテクノロジーへの提言「バイオテクノロジーと生命倫理 - ヒトゲノム解析研究のELSIをめぐって -」

バイオテクノロジーと生命倫理
- ヒトゲノム解析研究のELSIをめぐって -
Prof. Rihito Kimura wearing a smile


早稲田大学人間科学部・教授
木村利人


はじめに

 20世紀後半のバイオテクノロジーの進歩と発展はめざましい。
 次々に新しい発見と技術の開発が行なわれている。人類が長い間、神の摂理のみに委ねてきたことが人間により可能となる時代になってきた。脳死体からの臓器の移植、遺伝子組み替え作物の生産、遺伝子治療、更にクローン羊や豚の誕生も実現し、ヒト胚の万能 (ES) 細胞を使用しての臓器や皮膚の再生医療なども可能になるかもしれない。
 21世紀におけるバイオテクノロジーの新しい開発は、医療、環境、産業資源、情報、通信、エネルギー等に関連し人間の生活に従来考えられなかった展開を数多くもたらすことになろう。
 いうまでもなく、このようなバイオテクノロジーのあまりの急速な展開、特に生命体の本質に関わりを持つゲノム解析研究については多くの人々が危惧の念を抱いている。
 本稿では、先ずこの研究の終了宣言の意義と未来の生命工学と医療における問題点を指摘したい。更に、このゲノム解析研究プロジェクトが先端生命工学研究では初めて「倫理的、法的、社会的な意味合い」の研究、すなわち略称「エルシー研究」(ELSI すなわち Ethical, Legal and Social Implications の略称) を含めて展開されてきたことの歴史的背景とそのルーツを検討し、その今後の方向付けを展望してみたいと思う。

ヒトゲノムの解読終了と医療の未来

 クリントン米大統領は2000年6月26日、主として米欧日の国際共同プロジェクトや民間企業によって人間の遺伝情報の総体の解読をほぼ終了したとの記者会見を行った。ブレア英首相も衛生生中継でこれに加わった。クリントン大統領は「この『ヒトゲノム地図』は、人類の作った最も重要な地図」だと述べた。いうまでもなく、この研究成果は発病以前の遺伝子診断と予防、病気の早期発見、発病や老化のプロセスの解明、遺伝子治療などへと利用され、その研究の一層の進展が予測されるからなのである。
 この研究が更に進展すれば、救急の場合を除き、病気になってからの医師による診断と治療よりも、各個人の出生時の遺伝情報によりそれぞれに相応しい健康管理や病気の治療がなされる可能性が出てきた。
 バイオエシックスの視座からこのような遺伝情報に関して次のような問題点を指摘しておきたい。

  • 個人の遺伝情報の管理義務と責任の問題。
  • 特に遺伝情報記録を保有している施設などによるプライバシーの漏洩防止の問題。
  • 保険加入、教育、就職、結婚、病気による差別 (家系に由来するとされる遺伝病や家族性腫瘍の場合の告知の範囲) の問題。

  •  この点に関し、2000年7月に米上院本会議は保険会社が加入者に遺伝情報の提出を義務づけることなどを禁じる法案を可決した。なお、日本の企業や学校、地方自治体などで恒常的に行われている定期健康診断などでの、特定の目的への同意なしに採取された血液 (たとえば HIV 抗体検査や集団データの解析に利用された例が既に存在する) からの遺伝情報の利用については厳重な規制と違反者への罰則が必要となろう。

    ヒトゲノム解析研究の共通指針

     日本においても、2000年4月28日に厚生科学審議会・先端医療技術評価部会においてミレニアム・プロジェクトに関連しての「遺伝子解析研究に付随する倫理問題等に対応するための指針」がとりまとめられた。
     また、科学技術会議生命倫理委員会も6月14日に「ヒトゲノム解析に関する基本原則」を決定している。いづれも血液など試料の提供者からの文書によるインフォームド・コンセントの取得や個人遺伝情報の厳重な保護、それが漏れた場合の損害賠償請求権を認めている。これらをふまえて、日本における全ての研究機関及び研究者によるヒトゲノム解析研究一般を対象とする共通指針の2000年度末までの策定を目指して、文部省、厚生省、通商産業省および科学技術省が共同で「ヒトゲノム解析研究に関する共通指針(案)検討委員会」を2000年8月14日に発足させ審議活動を開始した。
     国際的には1997年11月のUNESCO (国際連合教育科学文化機関) 総会で採択された「ヒトゲノムおよび人権に関する世界宣言」が注目される。この宣言は同機関の「国際バイオエシックス委員会」が、生命工学に関連する倫理的、法的、社会的問題を国際的な人類共同体の展望において策定するための4年間にわたる審議を経て、1996年12月に草案をまとめ、政府専門委員会による検討修正の上採決された。
     この宣言の第一条はヒトゲノムが人類社会の全ての構成員にとっての基礎的・本質的な統合・尊厳・多様性を形成しているとした上で、「象徴的な意味においてヒトゲノムは人類の遺産である」としている。その他、ヒトゲノム研究・関係者の権利、研究条件、国と国際的義務、宣言の推進と履行について規定をおいているものの、この宣言は条約ではないので各国が法的に拘束されることはない。
     しかし、ヒトゲノム研究のあり方へのバイオエシックスの立場からの基本的・国際的な世界共通のガイドラインとして、諸国の研究者たちに影響を与えつつある。

    ヒトゲノム解析研究のルーツ

     アメリカでこのヒト遺伝子の研究にいち早く取り組んできたのが、エネルギー省 (DOE) であった。
     ヒト・ゲノムとエネルギーとにはどのような関連があるのだろうか。実は、米国連邦政府のエネルギー省はその前身である原子力委員会を含め長期のスケールで、原子力とその遺伝子に及ぼす影響についての研究を行っていた。
    1976年当時のNIHガイドラインに基づく厳重な物理的封じ込めによる遺伝子組み替え研究・実験施設 (p-4)
    (C) NIH
    1976年当時のNIHガイドラインに基づく厳重な物理的
    封じ込めによる遺伝子組み替え研究・実験施設 (p-4)
    具体的には人間が放射線を浴びた場合に、遺伝子にどのような変化が生じるのか、という研究である。その研究の実質的なスタートは、広島と長崎に原子爆弾を投下した時にさかのぼる。
     その後、最近になって戦後引き続いて核兵器開発実験に関連して、米国内でも主として軍事要員を対象に遺伝子と放射線の研究が大きなスケールで極秘のうちに行われ、その否定的評価が米国政府特別委員会によって1995年に報告された。このように連邦エネルギー省の核医学研究プロジェクトと、臨床医科学的・遺伝学的に研究を続けてきた連邦厚生福祉省 (HHS) の研究プロジェクトとが一体化されて、ヒトゲノム解析研究計画は構想され、実現に至ったのであった。
     更にこれらの研究をさかのぼれば、第二次世界大戦前に最先端を行っていたナチス・ドイツの人種遺伝学研究や優生学にたどり着く。特に第二次大戦中は主としてユダヤ人を対象にナチス・ドイツ軍事医学は極めて非人道的な放射能医学人体実験 (断種) や優生・安楽死計画などを強制収容所などで推進した。当時、最先端の優れた専門家により展開された人類のマイナスの遺産に歴史的な総括と反省を行うべきことはバイオエシックスの深刻で重大な課題の一つとして指摘しておきたい。
     これは、当然のことながら旧日本軍の最近部隊として知られる石井部隊の生物医科学人体実験や血清、ワクチン製造の事例も含めて、わたくしたち日本人にとっても大きな生命倫理の課題なのである。すなわち、わたくしたちは、現在中国がこの石井部隊跡地にある建造物をユネスコの「世界遺産」として新しく登録準備していることの意義を考えることに直面せざるを得ないからである。既にアウシュヴィッツ強制収容所跡と広島の原爆ドームは世界遺産として登録済みなのである。
     ナチス・ドイツの強制収容所での非人道的な医学人体実験を裁いた軍事裁判 (1947年) は新しく「ニュールンベルグ綱領」を判決において示した。その第一条はあらゆる医学実験において、被験者による「自発的な同意の原則」が絶対に必要だとした。この「綱領」はいうまでもなく現在の医療や遺伝子治療などの先端生命工学的臨床研究における被験者からの「インフォームド・コンセント (十分な情報に基づいた患者の同意)」のルーツの一つとなっていることを忘れてはならないのである。

    ELSIの意義

     ヒトゲノム解析研究それ自身は最先端を行く最も新しい研究分野である。それは人類のさまざまな病気の解明と治療への希望に満ちた輝きでまぶしいくらいである。
     しかし、どのような理想と希望に満ちあふれた生命工学や遺伝医科学研究もそのコースを誤らないという保証はない。過去の歴史に明らかなように「善意で優秀な?」医科学研究者たちによる悲惨な罪責をくりかえすことがあってはならないという強い決意こそが、ヒトゲノム解析研究をして世界の科学研究の歴史始まって以来最初の「倫理的・法的・社会的意味合い」についての研究を同時進行させる科学研究プロジェクトたらしめた理由なのである。

    表 医療・遺伝と ELSI の問題提起の事例
    医療の立場バイオエシックスの問い
    (異なった立場・見解の存在)
    人生観・世界観に関連しての問い
  • 遺伝病の早期発見と早期治療
  • カウンセリング (遺伝相談)
  • スクリーニング
  • コンピュータに遺伝欠陥データを入れ、検索するシステムの開発
  • 1. 遺伝欠陥の有無にかかわらず受胎した子供を生む権利と義務を持つか (中絶禁止立法、体外受精の権利)
    2. 状況により、医師・母親・両親などの判断をもとにして、胎児の出生に選択の余地を与えるべきか (中絶の合法化 - 遺伝欠陥事由による)
    3. 社会的な福祉施設の充実を再優先政策とし、個々の胎児の出生に条件をつけてはならないのか
    子供を持つのは
    1. 親の権利 (だれでも子供が持てるようにすべき) か
    2. 宗教・信仰その他の理由によるのか
    3. 偶然 (運命) によるのか
    4. 自分たち両親が選択し、都合の良い時に子供を持つのか
  • 医療およびその財源の制約と限界を認める
  • 1. 遺伝病のためのスクリーニング・治療の財源は、個人の負担が社会 (国家) の負担か
    2. 生命は尊いのでどのような犠牲を払っても生命を保持すべきか (生命の神聖性)
    3. 遺伝病における苦しみ、生命の質の意味と本質は何か
    4. 医療財源の効率を良くするため、むしろ早期発見のためのスクリーニング・プログラムを予算化すべきか
    5. 遺伝的欠陥は人間の遺伝子プール存在上、必要不可欠・・・したがって、そのコストは社会が負担 (国庫による全額無条件の負担) するべきか
    遺伝病とわかった場合
    1. 子供を生まないのか
    2. 地域での施設の状況をふまえて準備をすすめるのか
    3. どのような場合も子供を生み育てるのが親の責任なのか
  • 遺伝病の診断と治療処置を的確にすすめる
  • 苦痛の軽減、病気の治癒を行うのは当然
  • 1. 遺伝病とは何か、正常と異常との差はあり得るのか
    2. 完全な人間というイメージは何か (人間はだれでも約10の有害遺伝子を持っている)
    3. 有害遺伝子保因者は子供を持つべきではないのか
    私たちの日常生活において
    1. 質を問う生なのか
    2. どのような信条 (宗教・信仰) に支えられているのか
    3. 親が子供の健康を求める理由は何か (胎児診断の普及)
    4. 遺伝は運命として受け入れるべきか (家系・前世の因縁などの迷信)
  • 優生立法の容認
  • 次の世代への有害遺伝子の伝播を避ける政策に協力
  • 1. 遺伝欠陥児 (程度により大幅な相違がある) が結局は "不幸" になるのではないかといった不安はあるか
    2. "不幸" の基準をだれがどのように当てはめるのか
    3. 遺伝的形質 (目の色、肌の色など) は生物学的なものであって、道徳的な価値観と結びつけてはならないことが理解されているか
    4. 人類の遺伝的多様性が人類生存の条件であることが理解されているか
    人生の価値とは何か
    1. 使命に生きること
    2. 愛し合うこと - 結婚、家庭
    3. 子供を持つこと
    4. 健康であること
    5. 働くこと
    など、そのほか多くの人生観・世界観の表明において、健康が重要な指標となっていることの意味を考える
    (C) 2000 木村利人

     私は1989年10月、ジョージ・ワシントン大学主催「遺伝子工学の倫理」国際会議において、このような ELSI 発足の背景をジェームズ・ワトソン博士から直接に聞く機会を持った。アメリカのノーベル賞科学者であり、最高責任者としてヒトゲノム解析研究をリードしてきた同博士は、「このプロジェクトにはパブリック・サポートが必要不可欠である。私は NIH でこのプロジェクトの最高責任者として、倫理的側面への取り組みを重視している」と明言された。
     先端的なバイオテクノロジーの展開に当たっては、あくまでも人権と生命の尊厳をふまえ、"歴史的展望" にたった生命倫理的洞察力を養わなくてはならない。さもなければ、過去の様々な事例が示すように、なりふり構わぬ研究者の競争心と功名心が、結果として研究のスポンサー (国民) の期待を裏切ることになりかねないのである。
     ELSI 研究の数多くの蓄積は既に文献として公開されている。それらのテーマには、例えば遺伝的なスティグマ・差別・画一化・人種優劣論、遺伝情報への自由なアクセスとその制限、遺伝的還元論や決定論の危険性、伝統・文化・信条・価値観・決定のプロセスをめぐる問題などがあげられている。
     わたくしは、日本におけるこのような ELSI 研究の主要目的を次の6点に要約しておきたい。

  • 遺伝情報の使用とそのゲノム解読内容の適用可能性。特に遺伝情報のプライバシー、遺伝差別、データの取得の段階と再使用、個別アクセスと法規制の ELSI 問題
  • 解析研究の成果の医学的臨床における応用の ELSI 問題。
  • 遺伝子研究におけるヒトを対象とする臨床治験のシステムをめぐる ELSI 問題。
  • 一般国民及び関連職業専門家に対する効果的な情報提供と教育をめぐる ELSI 問題。
  • 厚生科学審議会先端医療技術評価部会など、公的機関におけるゲノム研究や遺伝子治療臨床研究の公開審議への一般国民の参加と意見の表明をめぐる「バイオエシックス公共政策」形成のための ELSI 問題。
  • 生命工学専門家を含む科学専門家のための生命倫理教育の徹底と専門職業集団・学会などでの倫理基準の作成及びその遵守。
  • おわりに

     ヒトゲノム解析研究を含む生命工学の熾烈な国際競争が健全に展開されるために、今こそ日本にも積極的に ELSI 研究が展開されなくてはならない。アメリカをはじめ欧米先進諸国では全研究予算の平均ほぼ5%という研究資金をつぎ込んでのこの分野の画期的な研究成果があがりつつある。
     日本の歴史と思想の文化的・社会的伝統をふまえた ELSI 研究はまだ殆どスタートしていない。国民の一人ひとりが先端医療技術や生命工学の展開に積極的な関心を寄せ、国家的科学研究プロジェクトの動向を良い意味で監視し、積極的に発言、問題提起する事が求められているのである。

    《参考文献》

  • シェルドン・クリムスキー,「生命工学への警鐘」(木村利人監訳), 家の光協会 (1984)
  • 木村利人,「人間遺伝子解析とバイオエシックス」, ヒューマンサイエンス, Vol.3, No. 1 (1990)
  • Rihito Kimura, "Das japanische Forschungsprojekt" in Hans-Martin Sass (Hrsg.), Genomanalyse und Gentherapie, Springer-Verlag, Berlin (1991)
  • Advisory Committee on Human Radiation Experiments, Final Report, USGOP, Washington, D.C. (1995)
  • 木村利人,「遺伝子診断・治療とバイオエシックス:公共政策形成過程の視座」, 日本医師会雑誌, Vol. 122, No. 12 (1999)
  • 木村利人,「戦争の世紀からいのちの世紀へ - バイオエシックスの視座からのテクノエシックスの提言」, 日本機械学会誌, Vol. 103, No. 975 (2000)
  • 木村利人,「自分のいのちは自分で決める - 生病老死のバイオエシックス=生命倫理」, 集英社 (2000)
  • U.S. Department of Energy, Office of Energy Research, ELSI Bibliography, Ethical, Legal & Social Implications of the Human Genome Project, 1994 Supplement, Washington, D.C., 1994
  • Office of Technology Assessment, Congress of the United States, Medical Monitoring and Screening in the Workplace, Result of A Survey, Washington, D.C., 1991


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